●昨日描いたのと同じ感じで、キャンバスにクレヨンでもう一枚描いてみた。昨日は、F40(100×80センチくらい)というちょっと大きめのキャンバスだったが、今日はS10(53×53センチくらい)という小さめの、スクエアのキャンバスに描いた。二枚並べてみて、昨日よりは、少しは自分がやろうとしていることが見えてきた感じはする。
今まで、色彩とタッチとしてやってきたことと、線としてやってきたこととが、結びついた、というか、結びつかないまま唐突に同居してしまった、という感じだろうか。それと、線もまた色彩をもつ、という当たり前のことについての新たな発見というか、今までとは違った(もう少し積極的な意味での)捉え方がここにはあるようだ。
これがクレヨンで描かれなければならない必然性はどこにあるのだろうか。単純に、色彩の精度やタッチの表情という点では、どうしてもクレヨンだと甘くなるから、油絵の具を使った方が良いはずなのだが、しかし、最初にこのような形の絵が出来たのがクレヨンだったということに、(おそらく、画面へ接触する時のイメージ-触感として、単純に描き味として)何かしらの意味があるはずで、それを簡単に筆と油絵の具へとスムースに変換できるのかどうかはわからない。おそらく、油絵の具でこの感じ(線と色彩-タッチの画面への入り方、触れ方)をやってみようとするならば、線も色彩も、かなり違ったものになるはずだ。その「違ったもの」のイメージが、もう少し見えて来るまでは、あと何枚かクレヨンでつづけるのがいいだろうと思う。
簡単な答えを拾わないこと。分からないところを分かることで取り繕わないこと。しかし、道に迷うことそのものを自己目的化しないこと。常に徴候に気を配り、何かが見えたと思ったらタイミングを逃さず最短距離で攻め込め。その積み重ねでちょっとずつ進む。先を急ぐと罠にハマる。当たり前のことだが、何度でも自分に言い聞かせる。
●平面上の「線」のもつ、表情、動き、形、緩急等のバリエーションはたかが知れている。しかし、それをパターンとして認識し、そのバリエーションとして組織するという風に捉えてしまった瞬間から、それをどのように複雑に組織化してみせようとしても、自らが整理した図表の内部に閉じこめられることになる。「線」が色彩の方へと逃れてゆき、「線」がクレヨンの柔らかさと顔料を弾こうとする加工されたキャンバス面との接触の感覚の方へと逸れてゆき、「線」がクレヨンの潰れた先端の曖昧な太さによって鈍くなり、「線」がそれを描いている時の姿勢や呼吸に影響され、「線」がキャンバスのたわみに吸収され等々、「線」が別の何かと図らずも短絡的に結びつき、影響され、引き込み、スリップし、そちらへと逸脱してゆくその気配を、その都度、その線を引いているその瞬間、瞬間に感じ取って、それに任せたり、踏みとどまったり、引き戻したりすること。おそらくそのやり取りだけが、新たな「線」を生むことを可能にするだろう。線は常に、新たに引き直される。新たな、とか言っても、それはきわめてささやかなものではあるが。実際、代わり映えもしないしパッともしないことを延々とつづけているだけなのだが。それでも、十年前、二十年前とは、多少は違ってきているように思う。