2020-02-24

豊田市美術館で岡﨑乾二郎「視覚のカイソウ」。四時間くらいかけて会場を三周したところで体力的な限界がきて離脱する。夢中で観ていたから気がつかなかったが予想以上にぐったりしていた。さらに、豊田市駅の直前まで歩いたところで、メガネをロッカーのなかに置いてきてしまったことに気づき(電車に乗る前に気づいてよかった)、もう一度美術館まで戻ることになる。帰りの電車・新幹線では、疲労が過ぎるため眠ることさえできず空をうつろに見つめる虚脱状態だった。

おおよそ、以下の三つの点で、大きな打撃とも言えるような衝撃を受けた。(1)作品が圧倒的にすごいこと、(2)自分が影響を受けていることは自覚していたが、ここまで(予想以上に)深く食い込まれるように影響されていたのか、ということを認めざるを得なかったこと、そして、(3)今、自分が考えていることややろうとしていることの多くが、既にとてもとても高い精度で実現されてしまっていること。勿論、知ってはいたが、目の前に大きな山があり、その山によって自分がなんらかの飛躍を強いられているのだということを、改めて生々しく突きつけられた感じ。

とはいえ、ただ圧迫を感じていたということではない。岡﨑乾二郎の作品という「謎」に関して、今までよりも何層かは高い解像度でそれを感受することができたのではないかと思うし、そこからくる「喜び」の感覚に満たされてもいた。

特に圧倒されたのは、最新(2019年)の複数パネルによるペインティングだった。岡﨑乾二郎が本格的にペインティングの制作をはじめた九十年代初め頃(確か、南天子画廊が木場に持っていた倉庫ギャラリーでの展示だったと思う)から観ているのだけど、三十年かけて、こんなにすごいところにまで到達したのか、と思い(ほとんどセザンヌの域ではないか、と)、それに比べ、自分はこの三十年の間なにをやっていたのか、と思わざるを得なかった。しかし同時に、最初期の「たてもののきもち」シリーズを観ると、すごい作家ははじめから完成されているのだなあ、という気持ちにもなる。そして、セラミックによる彫刻作品こそが、「岡﨑乾二郎の頭の中」がもっとも直接的に提示されているのではないかと思ったりもした(これをはじめて観たのは京都で、もう二十年くらい前だ)。そしてまた、「ポンチ絵」が他の作品群からややズレたところで個別的にすばらしい。今回は一点しか展示されていなかったが、(八十年代終わりから?)九十年代初め頃の床置きの立体作品も好きなのでもっと観たかった(この作品が、タイルの作品の前に置かれていることに、そうくるのか、という驚きと納得を感じた)。

(「あかさかみつけ」のバリエーションで用いられている色彩が、ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画の色彩から反映されているように見えた。)

●多くの作品は既に観ている(実物を観ていないとしても、図版などで見ている)。(実物を)繰り返し観ている作品も、(図版などで)繰り返し繰り返し観ている作品も少なくない。だからこの展示でまずは、それらの作品たちがどのように配置されているのかというところに興味がいく。とはいえ、それほど多くはない、「知らなかった作品」が、ところどころであらわれると、それが、いちいちその都度「そうくるのか」という驚きと新鮮さをもって懐に切り込んでくるのだが。

(たとえば、ぱくきょんみの『何処何様如何草紙』という詩集の装幀のための絵がとてもすばらしくて驚いた。ショップに売っていたので本を買って帰った。)

でもそれは一周目のことであり、全体の構成を大づかみには理解した二周目以降は、それぞれ個々の作品に(改めて・はじめて触れるように)没入しつつも、それが他と(会場における継起的・三次元的な配置を意識するのと同時に、それ---時空---を越えた形で)どのように関係しているのかということにも意識・連想がいくようになる。

●あまりに多くのことを感じ、考えたので、それを一挙に吐き出すことはできない。それは、今後、徐々にぼくを変えていくのだと思う。

 

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