●昨日の日記では書き忘れたけど、『この世界の片隅に』で、すずが闇市に買い物に行った帰りに遊郭に迷い込んでしまって、しかし遊郭の遊女たちは皆、他所からつれてこられた女性たちで、しかも基本的に遊郭の外には出られないから、地理がわからず、すずに道案内することができない、という味わい深いエピソードがあった。すずも、結婚するという形で知らない土地にやってくるのだけど、それとは別の形で、知らない土地に連れてこられる女性たちがいる。すずの方向音痴とは別の方向音痴がある。ここにもまた、「ここ」とはちがう「そこ」がある。
ここでさらに面白いのは、遊郭で偶然出会った遊女と、子供の頃に幻視した座敷童が、スイカを媒介として繋がること。勿論、あの座敷童がこの遊女だったということではないだろう。本来離れているはずのものが、スイカという媒介を通したアナロジー的連想によって結びつく。これもフィクションの重要な機能だろう。
●すずと、夫になるシュウサクとが出会うのが、すずの書いた(描いた)妄想の物語のなかでだ、というのは不思議な感じだ。シュウサクはすずとの出会いを憶えていて、その記憶からすずの家を探り当てて求婚するのだけど、すずは、後に夫になるシュウサクとどのように出会ったか憶えていないという。しかし、すずは、夫との出会いの物語を妹に向けて描いている。つまり、フィクション化するくらいの何かしら印象的な出会いがあったはずだけど、すずは夫との出会いをフィクションの形でしか憶えていない。だとすれば、すずは、遊女ともどこかで実際に会っていて、子供時代の貧しい遊女に実際にスイカと着物を与えたことがあるのだけど、それを座敷童というフィクションの形でしか記憶していないと考えることもできる。
●また、別の解釈も可能だ。シュウサクは実在せず、すずの妄想の物語の人物であり、つまり、すずとシュウサクの結婚生活もまた、すずによるフィクションである、と。すずは、広島にいて亡くなってしまい、死者となったすずが、呉で結婚している別の世界の自分を夢を見ている、と。これはちょっとひねり過ぎかもしれないけど、しかし、『この世界の片隅に』という作品が、自分自身のフィクション性を強く意識させようとしたつくりになっていることは確かだと思う。
すずによるシュウサクとの出会いの場面がフィクションであるように、ここに描かれる戦中の生活はフィクションである、と。とはいえ、戦争があったということはフィクションとは言えない。
●これは昨日も書いたけど、すずは、自分自身の感情や欲望に気づかない。あるいは、大きく遅れて気づく。納屋の二階で水原と二人きりになり、水原から性的に迫られた時に、すずははじめて水原が好きだったこと、本当は水原と結婚したかったのだということに気づく。この気づきによってもたらされる「別の可能性」に、すずは煩悶する。この時すずは、現在の夫との生活に不満があるというわけではないだろう。むしろ夫は唯一無二の存在だと思っているだろう。しかしだからこそ、この時リアルに立ち上がった「別の可能性」と、「実際のいま・ここ」との間の両立不可能性に、決定的な「そこ」と「ここ」の違いに戸惑うのだろう。しかし、このリアルに立ち上がった別の可能性によって、現在の夫との生活の唯一無二性が強まったとも言える。
●しかしこれは事実の残酷さでもある。爆発によってハルミと右手を失った時、もし、右手で鞄(訂正、風呂敷でした)をもち、左手でハルミと手を繋いでいたら、自分ではなくハルミが助かったかもしれないと仮定することが可能であるということが、ハルミが死んでしまったこと、ハルミではなくすずが助かったのだということの唯一無二性を際立てる。この時、「ここ」と「そこ」とは断絶している。
●フィクションは「ここ」と「そこ」を繋ぎ、交換可能にするが、現実が、その繋がりを切断することがある。しかしそれでも、フィクションは別の形でそれを繋ごうとするだろう。
●この映画の後半は観ているのがひたすら辛かった。すずが、右手とハルミを失って無気力状態になっている時に空襲警報がある。しかしすずは、縁側にぼんやりと立って防空壕に入ろうとしない。その時、焼夷弾の欠片が屋根を突き破って畳に落下し、燃え始める。すずはこれを、何もしないでしばらくじっと見ている。この、ただ火を見つめたまま佇むすずの姿が、このまますべてが崩壊するのではないかという予感に満ちたこの遅延の時間が、何とも恐ろしかった。
しばらくしてすずは、ぎゃーっとか叫びながら、火に布団をかぶせ、水をかけて必死に消そうとする。おそらくこの時に、すずは少し生き返った。火を消さなくてはという気持ちが立ち上がり、必死に火を消そうとする行為を通じて。
●この映画の最後で、親を失った子供と、ハルミと右腕を失ったすずが、失われた右手と失われたハルミを媒介として結びつく。このアナロジー的接合が、現実が切断したものを再び接合しようとするフィクションの機能だと言える。
●昨日、この映画には嫌な奴が一人も出てこないと書いたが、一人いた。すずの兄だ。出番は少ないが、強烈に嫌な感じ。