デビッド・ホックニーの「ジョイナー写真」と私

●作品を制作していてふと思ったのだが、ほくの今つくっている作品は、案外、80年代初め頃にデビッド・ホックニーがつくっていた「ジョイナー写真」を観た記憶に、大きく影響を受けているのではないだろうか。
●人間の視界は左右では約180度ちかくひろがっているのだけど、実際によく「見えている」範囲はかなり狭い。視界の多くの部分は、その領域に何か「動くもの(異変)」が生じた時にそれを察知し、視線をすぐさまそちらへ移動させるための、いわば予備的な領域であろう。人間の目は、眼前にひろがる空間を一望(一挙に)に把握するのではなく、視線を常に移動させ、そのところどころで見たものを寄せ集めて、脳のなかで繋ぎ合わせることで空間を構成する。だから、映画や写真、絵画のフレームと、人間の視線が一致することは決してない。つまり、映画や写真や絵画が、人間の視覚を自然に再現することはない。映画におけるモンタージュでも、それは時間的な順序に拘束されたものであり、基本的に、自由に動く視線によって得られた像の並列分散処理によって構成される視覚的な空間とは異なる。(だからこそ、映画や写真、絵画でしか「見る」ことのできないものを立ち上げることができるのだが。視覚的空間が、脳による事後的構成によってたちあがるからこそ、映画で、人間の自然な視覚ではあり得ないような形で、めまぐるしくカメラの位置が移動したショットが積み重ねられても、そこに空間をみることが出来る。逆に、一人称的なショットは困難だろう。)視線は常に動き、それによって新たに追加された像(とそれ以前に見た像の集積、そして記憶との配合)によって、(空間をたちあげるための)フレームは伸縮し形態を変えつづけ、空間は奥行きや配置を変えつづける。(勿論そこには、我々は重力のある三次元的な比較的安定した空間の内部にいる、という基本設定が働いているので、通常「空間の動き・変化」はその範囲内で納まる。)
●ぼくが知っている限りで、人間の自然な視覚にもっとも近いかたちの作品が、デビッド・ボックニーによるジョイナー写真だと思う。とは言っても、今手元にその図版がなく(掲載されているはずの古い「美術手帖」をさがしたのだが見当たらないので、前の引っ越しの時に捨ててしまったのかもしれない)これ以降の記述は記憶によるもので、不確かな部分があると思われる。ジョイナー写真とは、あるパノラマ的な風景=空間や、プライベートな風景=空間などを、一つの場目で、70から80枚程度のスナップショットを繋ぎ合わせることで構成した作品。それぞれのショットは皆、同じ形態、同じ大きさ(横長の矩形)のプリントで、それらがあまり目立たないグレーの台紙の上に張り合わされている。ジグソーパズルのようにぴったりとかみ合う形ではなく、ずれたり重なったりしながら張り合わされていて、像も滑らかでなくツギハギ的であり、それが、大きめの台紙に、(撮影された時の)視線の動きに合わせて、かなり自由な形で(つまり四角いフレームをあまり意識せずに)繋ぎ合わされている。一つ一つのショットは、必ずしも同一の視点から撮られてはいなくて、微妙に視点がずれもているのだが、人は普通静止して(首も固定させて)ものを見たりすることはなく、移動しつつ見ているのだから、像のズレは気になるどころか、むしろリアルさを際立たせる。同一の形態のプリントが張り合わせてあることで、一枚のショットが一つの「見たもの」の単位に対応し、その単位の集積・反復が、視線の移動のリズムを表象すると同時に、無数の紙片の重なりが、見ることの重層性を感じさせもする。(こんな回りくどい説明よりも実物を見れば一発なのだが、ウェブ上で画像を探しても見つからなかった。)
このような技法は、「作品」としてよりもむしろ、「見た目」の空間を再現・記録するやり方として非常に優れているし、ちょっとしたコツさえ掴めば、割合誰にでも簡単に出来るので便利だ。(学生の頃真似してみたら、案外簡単に出来た。この時重要なのは、あくまで「視線の動き」に忠実にショットを張り合わせて構成することで、フレームの四角い形態に引っ張られないようにすることと、そのために、台紙はなるべく目立たないグレーの、比較的大きめのものを選ぶことだと思う。大きすぎたら後からカットすればよいのだから。)試してみると分かると思うけど、パノラマ写真やムービーなどよりも、自分がその場で感じた空間の感じを、ずっと良く、しかも簡単に再現できる。(ただ、「アートっぽい」人がやると過度にキュビズム的になってしまって、「作品っぽく」はなるけど、空間の再現としてはあまり意味がなくなってしまう。このようなキュビズム風ジョイナー写真は、当時レコードのジャケットや広告などで結構使われたけど、それらはポックニーの作品の意味を取り違えているように思う。と言うか、その後の作品の展開をみると、ホックニー自身が取り違えているようにも思うけど。)
●勿論、ぼくの作品は単純な空間の再現を目指しているわけではないし、ホックニーよりはずっと複雑なことをやろうとしているはずだと思っているのだけど、それでも、ホックニーのジョイナー写真における1枚1枚のショットのあり方は、ぼくの絵の一つ一つの筆致のあり方に近いし、その(フレーム内部での)ショットの重ねかた、繋ぎ方は、ぼくの絵の、筆致の置かれ方、筆致と筆致の関係のつけ方に、近いものがあると思える。自然な視覚のあり方にある程度は基盤を置くのでなければ、絵画が「保たない(持たない)」と感じている点でも、親和性があるように思う。(例えばデャシャンは、「絵画は網膜的なものに過ぎない」と言って、絵画=視覚のレディメイド性を批判し、より可変的・可塑的である思考=言語的操作による作品へ移行するのだけど、デュシャンが批判する視覚のレディメイド性にこそ、実は絵画の力が宿っているのではないか、とも思う。)しかしくり返すが、ぼくの絵では、ホックニーよりもずっと複雑に、多層的に、視線の流れを組織しているはずなのだけど。
(いきなりジョイナー写真のことを思い出したのは、青木淳悟の『四十日と四十夜のメルヘン』を読んだせいかもしれない。)