パーソナルギャラリー地中海で、堀由樹子・展

●代官山のパーソナルギャラリー地中海で、堀由樹子・展。ここで展示されている2点の大作(『河川敷』と『平地』)は、去年の鎌倉画廊や一昨年のギャラリー千空間で発表された、風景(というか、ある「領域」のようなもの)を描き出そうとする試みの一連の作品の、ひとつの(ふたつの)成果を示していると言えるようなものだと思われる。括弧して「ふたつの」と書き加えたのは、この2点の作品が示す「成果」の方向性が微妙に異なると思われるからだ。
●おそらく2001年頃から制作がはじめられたと思われる、堀氏の風景(領域)を描こうとする作品は、ある領域(空間)を描くというよりも、その領域にふと闖入し、そこを横切ってゆく「猫」の「動き」こそを捉えようとしており、この魅力的な猫の「動き」によって、ある領域(これは「描かれた領域」であると同時に、キャンバス=絵画という領域でもある)が開かれ、たちあがり。成立しているような作品だと言える。(このことは、このような作品の多くに『passage』というタイトルがついていることからもうかがえる。)これらの作品は堀氏の作品のなかでもとりわけ魅力的なものであり、この魅力の多くはそこで捉えられた「猫的な動き」によって支えられているように思う。しかし、2003年の『quiet garden』から、「動くもの」としての猫のいない状態での「ある領域」そのものを、画面に数本の「樹木」を描くことだけによってたちあげようとする作品が描かれはじめる。画面に生き生きとした活力と動きを与え、それによって形態が固定的に閉じてしまったり、画面を観る視線が滞ってしまったりすることを防ぎ、作品の空間を流動的なものにし、作品の入り口としても、作品からの出口としても作用していた「猫(の動き)」がなくなった画面は、たちどころにいくつかの大きな問題に突き当たることになろう。形態が固定的なものとして閉じてゆき、それによって形態と背景とがはっきりと分離し、空間的イリュージョンのゆらぎや動きが抑制されて単調な(固定された)ものとならざるを得なくなる。これらの問題に対して掘氏は、その独自の厚みのある色彩の表情や、形態(樹木)と背景とのあいだでなされる粘り強く複雑なやり取り、そして形態そのものの面白さや画面内部での形態(樹木)の配置によってくつられるリズム、等々によって対処しようとしていて、その努力は何点かの非常に面白い作品を生みはしたが、「猫」のいる作品でみられたおおらかでユーモアのある感じはやや影を潜め、どこか苦しげな感じがつきまとっていたことは否定できないと思う。
●今回展示されている2点の大作は、上述したような単調さや苦しげな感じを見事に振り切っているように思われる。
『河川敷』においては、描かれる形態(樹木)が、ごろっとした「物」であるというよりも、線や筆致へと半ば解体されているようにみえる。これは言ってみれば、形態(樹木)が物そのものと言うよりも水に映った物の影のような感触をもつと言う事だろう。物が、物としてのごろっとした「堅さ」や「物質感」からやや後退し、筆致へと半ば解体されることで、形態(樹木)と背景は自然に混じり合って画面に統一感が生まれ、物が半ば(「半ば」というニュアンスがけっこう重要なのだが)映像化することで空間は三次元的なイリュージョンの「縛り」から解き放たれ、筆致はのびやかに運動するようになる。物(形態=樹木)の物質感の希薄さは、しかし、作品全体としての絵の具の表情や色彩のもつ「厚み」によって代替されるので、作品は決して薄っぺらにはみえない。つまり、視覚的な像としては、浅い奥行きの平面的な層の重なりとして場が統一されているのだが、作品そのもののもつ物質的な厚みによって、作品は触覚的な「深さ」を獲得している。これはまったく見事な「上手い」絵であるし、問題の解決の仕方としてはとても「正しい」と思う。絵が好きな人には高く評価されるような作品だとも思う。しかし、ひねくれたマニアックな絵画好きであるぼくは、堀さんにはこのような正しくて見事な絵よりも、もっと「面白い」絵を描いてほしい、とか思ってしまう。これはあくまでぼくの勝手な「好み」の問題でしかないけど。
『平地』はとても不思議で面白い絵で、この絵を観ながらいろいろと考えていたのだけど、この絵の面白さの所在はそう簡単には掴めそうもない。この絵は、画面の手前から奥へ向かって空間がひろがるのではなく、(水墨画のように)画面の下から上へと空間がのびてゆくような絵だと思う。ただ、図像的にみれば、この絵は上と下とできれいに二つに分かれてしまっている。上下2列に分かれ、横に並べて、それぞれ5本ないし6本の樹木が描かれている。ここで描かれる樹木は、『河川敷』の半ば筆致へと解体された(解体されかかっている)樹木に比べるとごろっとした物としての感触(求心性)があり、形態として「閉じられている」。形態として閉じられている度合いの高い樹木が、まるで文字のように上下2列に分かれて配置されているこの絵が、しかし、あくまで画面全体としての統一感を保っているのは、色彩や調子が抑制的に使用され、画面が一定のトーンに限定されているからなのだろうか。閉じられた形態として、それぞれバラバラに、10本ないし11本の樹木が、それぞれのキャラが立つように描き分けられ、それが上下2列に並べられるように配置されているにも関わらず、全体として、画面の下から上へと広がるような空間性があり、統一感が保たれている。樹木の形態が、上下2列に文字のように並べられているとは言っても、それはあくまで事後的に「言葉にしようとする時」にそのように把握されるのであって、画面を実際に観ている時は、文字を読むように視線が単調に横へ流れるようなことは決してなく、もっと自由に、バラバラに、複雑に、動く。描かれた樹木の一本一本に視線を立ち止まらせて観ること(それを楽しむこと)が出来るくらいに、個々の樹木の表情が描き分けられていて、それは形態として(ある程度)背景から切り離されて閉じてはいるのだが、しかし、それによって視線が堅く固定されてしまうような感じがなく、自由に動くことが出来る。それは、それぞれの樹木(形態)とその背景との間に非常に複雑なやり取りがなされていることと、画面全体のなかでのそれぞれの樹木の大きさや形態やトーンの「配置」(関係)によって、堀氏独特のおおらかでユーモアを感じさせるリズムが生じているからなのだろう。それぞれを孤立した形態としてみれば、背景から切り離され、固定された、動きのない、閉じられている形態であるもののの配列が、画面全体としての統一感を生み、単調で固着したものではない流動的な空間性を成立させ、ある「領域」をたちあげることに成功しているのは、複数の形態の間で(関係によって)生じる、リズムによってではないかと思われる。このようなリズムを生むのは、勿論、掘氏によって描かれ構築された形態の関係によってであるのだが、同時に、それを目で追いつつ、関係づけようとする観者の「観る(認識する)」という行為でもあるのだと思う。(リズムというのは時間のなかで経験されるものなのだから、それは決して一望のもとに一挙に把握されることはなく、作品を観ている、視線を動かしている「時間」のなかで刻まれる。しかしこの絵では、同時に一望で把握されるような空間性も成立しているようにも思う。)
●堀由樹子・展「徒歩圏」は、代官山、パーソナルギャラリー地中海(東横線代官山駅の正面改札を出てすぐ右手、赤いポストのある建物、東急アパートアネックスの5階)で、3月5日まで。TEL/FAX 03-3496-6387、12:00-19:00。日曜休み。