反復

●人の流れが途切れ、ざわめきが遠のくと、エスカレーターというものが、思いのほか大きな、うなるような音をたてて動いているのだということに気づく。モーターが回転するブーンという持続する音と、次々とあらわれては上昇して消えてゆくステップが、開かれては折り畳まれる音の重なり。うなるような音をたてながら、ステップは次から次へとあらわれ、果てしなく上へ向かって流れつづけている。
●何ものかが反復してゆくことは、フレームを越え、それを無化する力をもつ。例えば草間弥生の水玉、アンディ・ウォーホルのスープ缶、クロード・ヴィアラのソラマメ状の形態。草間弥生の水玉は、まさに水玉模様に起源を持ち、しかしその装飾的な増殖する欲望は、水玉が、身体の発疹や、あるいは性的な意味などと(意識的であると同時に無意識的であるような仕方で)結びつくことで、その増殖が爆発的なものまでになるのだと思われる。ウォホールのスープ缶は、大量生産と大量消費によって成り立つ生活の感触に基盤を置きながらも、平面化、ポップ化したイメージでスペースを埋め尽くす事でそれを覆い隠し、その感触を否認しようとしているようにもみえる。ヴィアラのソラマメ形の反復は、シュポール/シュルファスという運動による、絵画作品をフレームを前提とすることなく生成させるようという、(美術史上の、そして69年的な思想上の)形式的な探求の要請によって生み出されたと言えよう。つまり、同じ反復とはいえ、この3者の作品はそれぞれ全く組成が異なる。しかしいずれも、反復はフレームを越え出て増殖し、ひとつのまとまったフレーム、完成した作品という概念を危うくする。
●しかしまた、反復が必ずしもフレームを破壊するとは限らない。反復がフレームと協調関係を結ぶ、あるいは、互いにせめぎあった緊張関係にある、という場合もあるだろう。例えば、ロバート・ライマンやリ・ウーファンのストロークの反復による絵画や、ドナルド・ジャッドの、同一形態をいくつも並べて配置した作品など。これらの作品においては、ある単位となる形態が「反復する力」と、その反復が起こる場としての「フレーム」との力関係は拮抗している(あるいは、巧みに調整されている)。これらの作品では、ある基本的な単位となるものの反復する力が作品に力を支えているのと同時に、フレーム内でなされる単位形態の「配置」が、作品に豊かなニュアンスを付与する。つまり、全く同じ形態であっても、そのフレーム内(場のなか)での配置によって、異なった表情や意味が生まれる。これは明らかにフレーム(限定づけ)による効果であろう。ここではあくまで、一つの作品が、「ひとつの作品(ひとつのフレームのなかに納められている)」であることに強い意味がある。このような時に、一般に、作品に「空間性」が生じる、と言われるように思う。
●一般的にみて、前者の作品に比べ、後者の作品の方がより洗練されていて美術っぽく、つまり、高級っぽくみえる。しかし、前者の作品が、荒々しい反復の力をナマで捉えているような感触があるのに比べ、後者においては、そのような生々しさは縮減されているようにもみえる。後者においては、圧倒的な反復の力に対して、作品を操作する主体による「操作性」(これがフレームと深く関係する)が強調されていて、その操作の技術や技法こそが、(主体による生の技法のようなものとして)作品の意味となるが、前者の作品においては、主体を越えた反復の力に貫かれる時の、その強度そのものが作品の意味となるだろう。勿論これは、あまりにも単純に図式化された分析であって、例えば個々の作家、個々の作品の「質」の評価とは直結しない。(作品や作家の評価は、こんな単純な図式によっては行えない。)