●昨日の日記を更新した後、テレビをつけてぼんやり観ていた。番組の途中から観たので詳しいことはよく分からないが、南米の話で、捕獲され人間に育てられていたメガネグマの子供を、なんとか野生に返そうということをやっていた。親は、人間に甘いものを与えられて歯が駄目になってしまって、もう野生には返せないけど、その子供は、生まれた時から将来乳離れしたら野生に返すことを考えて飼育されていて、なるべく人間になつかないようにとか、ジャングルに連れて行って木登りの練習をさせたりとか、配慮されていた。
野生に返すための段階として、人間に飼育されている檻から出して、外の、広い地域を囲いで囲った場所にクマを移動させ、そこで独力で、外の環境でエサを探したりすることに慣れさせ、人がそれを定期的に見守り、外の環境に充分に順応したと判断出来たら、人が干渉しないもっと山奥にまで連れて行って離す。離す時に、首に、三年間電波を発する首輪をつけて、その間はそのクマの所在をフォローするが、その語、人間とそのクマとの関係は完全に断ち切れる、と。計画は上手くはこび、無事、クマは山に離された。
クマを育てた人間は、そのクマのことをおそらく一生忘れることはないだろう。電波が途切れ、完全にクマとの関係が切れたとしても、折りに触れてそのクマのことを思い出し、クマが今、どこでどうしているのかを想像するだろう。しかしクマはどうなのだろう。人間によって育てられるという過程を経たクマは、生まれた時から野生で、はじめから一匹だけで生活しているクマとは異なる、「内面」の萌芽のようなものを持ってしまうのではないだろうか。それとも、目の前の環境の対して完全に順応出来れば、それ以前の記憶は消えるのだろうか。ちょっとした澱のようなものとして、違和感のようなものとして、記憶や感情を感じることはないのだろうか。ある日、エサをもくもくと食べている時、ふと、自分は以前、今とはまったく違う環境で生活していたことがあったのではないかという感覚が、遠いものへの思いが、はっきりとした記憶としてではなくても、あるいは明確に「さみしさ」のような感情として像を結ぶことはなくても、ちょっとした現状への違和感のようなものとして、あるいはある種のもどかしさのような感覚として、ふっとよぎり、ほんの一瞬だけエサをたべる動作が止まってしまう(つまり、環境への対応に遅延が起きてしまう)、ということはないのだろうか。こういう想像は既に、クマを過剰に擬人化したもので、感傷的に過ぎることなのだろうか。しかし、クマに(動物に)感情や記憶の萌芽がないとすれば、何故、人間にはそれがあるのかが分からなくなるのではないだろうか。感情以前の感情の萌芽として、違和感や澱のようなものとしての、クマの感情の動きを想像することは、クマを人間化するというよりも、逆に、人間の方を人間の外に連れ出すのではないかという気もするのだ。
●昨日、練馬区立美術館へ行く電車のなかで、けっこう混んだ電車なのに周囲のことはまるで無関係に部屋で二人っきりみたいなまったりした雰囲気を発しているカップルがいて、彼女の方が席に座っていて、何駅か後に乗ってきた彼の方はその席の前に立っていて、その彼女の隣りに女性が座っていて、その女性の隣りにぼくが座っていた。その二人の会話が思いっきりバカっぽくて、それが面白くてずっと聞き耳をたてていた(彼も彼女も服装はちゃんとした社会人っぽかった)。彼女のすぐ隣りに座っていた女性はすごく鬱陶しそうで(彼は彼女の方にのしかかるように前のめりになって喋ってるし)気の毒だったけど、ぼくはその女性一人分の距離があったためそれほど鬱陶しくはなくて、ただ面白がっていた。
「あーっ、関西進出してえ」
「はあ?」
「関西で活動してえ。そう思わねえ?」
「意味わかんない」
「引っ越しちゃうかなあ」
「仕事どうすんのさ」
「うちの会社、関西支社あったやろ」
「大阪支店?、新入社員入ったし、今、人いっぱいいるから移動できないよ」
「そんなん、とりあえず移動願い出しときゃいいやん、オッケーやん」
会話の途中で脳内では既に関西に移住してしまったらしい彼は、いつの間にか会話にあやしい関西弁が混じるようになり、「関西進出」の話題はそこで終わりだったのだが、その後も、しばらく会話のなかに関西弁がまだらに残っていた。だいたい、何故唐突に関西進出なのか、何がオッケーなのかもさっぱり分からない。話の流れがまったくみえない。聞いていて、こいつ、すっげー面白くていいなあ、と、思わず顔がにやにやしてしまうので、手で口を隠してこらえていた。