●今年は本当に5月がなかった。もう6月だが、天気予報では晴れると言っていたので今日くらいが最後のチャンスかと思っていたが、晴れといっても空は七割くらい雲で覆われていたし、風が粗く舞っていた。空気が湿っている。もう既に、いろんなところで紫陽花が花をつけている(それにしても、紫陽花は紫陽花でしかありえない色をしていると、紫陽花を目にするそのたびに、改めて思う)。週間予報ではしばらくぐずぐず曇る感じで、このまま曖昧に梅雨にはいっていきそうだ。5月らしい陽気はもう期待できないだろう。外を歩いていて、視界に占める緑の割合がどんどん高くなり、緑の色や匂いはどんどん濃くなってきているのに、何か違うというか、いまひとつすっきりしない。
絵を描くこととは別に、(お金になることが期待される)二つのことを並行してしているのだが、これがどちらもなかなか進まないで、頭がどんよりしている。
●昨日の夜だが、なんとなく観ていた「とびだせ科学くん」で、人類が月面にはじめて立って四十年だと言っていた。人類に共通したものとしての「人類初」という言葉にリアリティがあった時代。月へ行くことが人類を「代表」した何かであり得た時代(月面着陸の生中継を世界中で約六億人が観ていた、と。「生中継」ということの意味が今とはまったく違っていた)。「歴史」がリアルであり得た時代(「現在」が「歴史」の「最先端」であると感じられた時代)。アメリカとソ連が互いに核を向け合って抑制し合い、宇宙開発を競争し、世界じゅうで勢力争いをしていた時代。ベトナム戦争の時代。東西問題があり、南北問題があった時代。世界の構造が図式として分かり易かった(分かり易い「図式」で納得出来た)時代。「○○問題」という設定が(抽象的な概念ではなく)リアルだった時代。政治が可能だった(可能だと信じられていた)時代。それは今とはあまりに違っているように感じられる。それはもうずっと昔だ。とはいえ、そんな時代に生きていた同じ人が、今も生きているのだ。それは決して過去ではなく、今と地続きの地平で、人はそれと同じ場所で(とはいえ、その場所の「意味」はすっかりかわってしまっているのだが)、それぞれその「つづき」を生きている。それは実は、つい最近のことなのだ。ぼくの妹は69年の7月に生まれたので、名前にアポロから「亜」の一字をもらっている。
●本屋に行くと、太宰治のムック本みたいのが三冊くらい並んでいて、なんでだろうと思っていたら、生誕百年ということだった。太宰がまだ百歳だということに驚く。小島信夫と八歳しか違わないのか。