●最近多少は、演劇とかダンスのようなパフォーマンスを観るようになったのだが、その時いつも気になっているのは、その行為(=作品)が、一体何に(誰に)向かってなされ、どこへと捧げられているのか、という点だ。パフォーマンスは、その時、その場でしか成立せず、基本的に反復することが出来ない。公演を、初日と最終日とで2度観ると、その違いに驚く。それはたんにその日の出来不出来ということだけではない、絵で例えれれば、描き出しと、ある程度進行した状態との違いくらいの違いがあったりする(マティスの連続写真のように)。再演となると、さらに違うだろう。その日の状態を観ているのは、その日にそこにいた観客だけだ。それは作品としてフィックスされず、それを後でもう一度観て確かめることは誰にも出来ない。しかし、その場の客に受ければよい、その場が盛り上がればよいというだけなら、それはお笑いライブやスマップのコンサートには決して及ばないものでしかなくなる。
最近つくづく思うのは、面白いと思える作品、よいと思えるパフォーマンスは、決して、その場の観客に向けたものでも、あるいはシーン(アートシーン、演劇シーン、ダンスシーン)に向けられたものでもなく、超越的な存在へ、つまりぶっちゃけ「神」へ(あるいは「この世界」そのものへ)と捧げられたものだ、という感じがする、ということだ。勿論、パフォーマンスはその場に客がいてはじめて成り立つという側面が強くあることは確かで、それはまずは観客に向かう指向性として発動され、客に向かってなされる。しかしその時、客は、行為の届け先、宛先、それが捧げられるべき相手というよりは、そこへと至るための媒介であり、つまり観客も含めたその場全体が、超越的な何者かに捧げられているように思う(観客は受け手ではなくその場を成立させる要素の一部であり、つまりそれは、パフォーマンスにおいては観客こそが「試されて」おり、「責任」を負っている、ということでもあろう)。もしそうでなければ、パフォーマンスは、「飲み会での盛り上がり」と質的には変わらない満足感によって人を満足させるものでしかなくなるのではないだろうか(「飲み会での盛り上がり」が悪いということではないが、それはあくまで「飲み会での盛り上がり」として面白いものであるべきだろう)。とはいえ、実際にパフォーマンスをつくる人、行為をする人は(ましてや観客は)、届け先としての「神」など信じてはいないだろうし、神への捧げものとしての芸能のような意識をもっているわけではないだろうと思われる。むしろ、そんなものを簡単に持ててしまう人など(そんなの嘘に決まっているのだから)まったく信用ならない。
表面的、意識的、顕在的には信仰を持たない人、持ちきれない人、そういう人たちによって行われる行為=作品が、どのようにして潜在的な次元での信仰や超越性を可能にしているのか。つまり、信仰を(神を、超越性を)懐疑なしで無条件の前提とすることが出来なくなった現代においては、作品は、「信仰の捧げもの」であると同時に、自分自身(の力とやり方)で信仰そのものを作り出す(可能にする)装置でもなければならない(例えば、「歴史」が神の代替物として、信仰の対象として機能していた時代も終ってしまった)。最近、作品を分析することに意味があるとしたら、「そこ」を分析することにしかないのではないかとさえと思えてきた。個々の作家、個々の作品でひとつひとつ異なるであろう「それ」を分析すること。どのような作品の構造、どのような細部の感触、どのような全体として機能するシステムによって、決して神とは名指されない神と同等ななにものかを、あからさまには超越性とは意識されない超越性を、産出し、機能させ、たちあげ、そこに奉仕し、自身の行為=作品を捧げる、ということが実現されているのか。分析が捉えるべきなのはそのことだ。そして、その個々の作品において(のみ)機能する潜在的な神、機能する潜在的な超越性が、人がそれを信じるに足りる、人がそこへ向けて自身の存在を捧げるに足りる、密度と強度をもっているのか。吟味される価値があるのは「そこ」だけではないだろうか(それは、パフォーマンス作品に最も顕著にあらわれるということで、実はそれに限らず、あらゆる「作品」についても言えると思う)。そんなことが自分に出来るのか、ということはまた別問題だが。
●やっている仕事がすこしだけ進んだので、今日はよい日だった。出来れば明日もこのペースでいきたい。やはり、一日に二、三時間は歩かないと頭が働かない。
●最近の主食は、三玉入って140円のうどんに、5パック入って400円のレトルトカレーをかけたもの。野菜も(ちょっとは)入ってるし、腹持ちもいい。基本、一日2食のうちの、1食はだいたいこれ。今月は、源泉徴収の還付金と定額給付金だけで生活する。