アートフロントギャラリーで、浅見貴子展

●猿楽町のアートフロントギャラリーで、浅見貴子展(http://www.artfront.co.jp/jp/hsg/lib07_6.html)。ベタに「画家」であることの強さ、というのを、浅見さんの作品を観る度に思う。アートワールドでの流行や文脈なとどは関係なく、かといって、「私」やアイデンティティーなどに拘泥するのでもなく、画家が「絵を描く」というその時に、何が画面で(そして描く画家の身体で)起こっているのかということ、そしてそこに何が見えているのかということだけに、その作品がかけられているということの強さ。そこから一歩も妥協しないという頑さ。(妥協しないというのは、一点一点の作品について完璧主義だということではなく、作品を生み出す時、「分り易さ」や「通りの良さ」に決して譲歩しない、という意味だ。)世界とか現実とか存在とか、言い方はどうでもいいのだけど、私の外側に広がる「世界」というようなものがあり(しかしその「私」もまた、世界の一部としてそのなかにいるのだが)、画家は、絵を描くという技術(行為)を通して、それぞれのやり方でその世界のほんの一端にでも触れようとする者であり、絵画の意味はそれ以外のところにあるわけではない。アートワールドでの言語ゲームとか、政治や社会への批評や異議申し立てとか、アクチュアリティとか、もっともらしい批評的、哲学的意味とか、そのような、世界と画家(絵画)との関係をあらかじめ保証してくれるような「貧弱なものたち」への誘惑に、(ある種の無関心によるのかもしれないのだが)揺らぐことのない強さ。(でも別にそれは、存在論的とか、崇高とか、そいうい大げさなことではない。そのような言葉もまた、世界と絵画との関係を「あらかじめ保証しておいてもらおう」というさもしい魂胆から出るものでしかない。そうではなく、ただ問題は、普通に絵を描くということにあるのだ。)
以前、東京国立博物館でやっていたプライスコレクションに展示されていた、若冲の「鳥獣花木屏風図」について浅見さんと話したことがあった。その時ぼくが、あれは酷い作品で、若冲だというだけであんなものを持ち上げる人は何を考えているのか、みたいなことを言ったら、浅見さんはきっぱりと、私はあれは若冲の作品ではないと思う、若冲があんなに甘い形を描くわけがない、と言ったのが印象に残っている。ぼくはこの時、作品の社会的な評価づけに対する異議申し立てみたいな(つまらない)ことを言っているに過ぎないのだが、浅見さんにとっては、あれは若冲の作品として検討するに値しないものであり、そうである以上そんなものに興味はないということなのだろう。あの作品が実際に若冲によってつくられたかどうか、そしてその作品の社会的な評価がどうであるか、などということは画家にとってはどうでもいい枝葉末節なことに過ぎない。ぼくはこの時、浅見さんの作品と同等の強さを、浅見さん自身から感じたのだった。
●ぼくが浅見貴子の作品(http://ait.shinchaku.com/modules/myalbum/viewcat.php?cid=6)をはじめて観たのは5年くらい前(http://www.d8.dion.ne.jp/~chimera/%90%F3%8C%A9%8BM%8Eq/azami.html)で、その作品は、技法もモチーフもやっていることも、5年前から基本的にはあまり変わってはいない。ほぼ同じようなことをやりつづけているのにもかかわらず、そこに停滞やマンネリのような感触は感じられない。そして当然、ほぼ同じようなことをやり続けていれば、上手くなったり洗練されたりするのだけど、しかしそれがたんなる手慣れた洗練ではなく、同じことを繰り返しつつも、次第に少しずつ、作品が広がりを増し、複雑さを増し、密度を増しているように思われる。驚くべきことは、ほとんど同じようなことが繰り返されるのに、その度ごとに、はじめてそれがなされたかのような新鮮さと、初期衝動というか、モチベーションの高さが一貫して維持されつづけられているということだろう。そのような高い緊張が維持されつつ反復されるからこそ、作品を(目新しさやこけおどし抜きで)「進展」させることが出来るのだと思う。このモチベーションの高さは、浅見貴子という人の才能なのか、それともこの画家に絵を描かせている環境(浅見さんは秩父に住み、庭や近所の木を描いている)が、画家にその都度「新鮮さ」をの力を与えているということなのだろうか。(「ほとんど同じことをやっている」などという無神経な言い方をしているけど、これはあえて「外側」からみた言い方をしているわけで、作家にとっては、その都度、毎回、新しいことをやっているつもりでやっているはずなのだが。)
はじめてその絵を観た時に感じたのは、なんといっても「点をうつこと(その、うたれた点を観ること)」の、ほとんど身体的なダメージとも言えるくらいの衝撃だった。墨の強い黒によって画面にランダムにうがたれた無数の点は、その一つ一つが重い振動を響かせながら、いくつも重なり合い、ズレてゆくことでざわめきを生み、そして、黒い点とその隙間の紙の地の白とが、ざわめきのなかで何度も小刻みに反転する。それらの総体が地響きのように観ているものの身体を震わせる。それは観るというよりも振動を受け止めるような経験で、だがその重たい振動は、枝にびっしりついた木の葉が風に揺れる様を観ている時のように、身体からふわっと重力が奪われるような感覚を生む。そのような、視覚を覆い尽くすような点の強度に、ある時ふっと、気持ちのよい広がりというか、空間のようなものが生まれる。確か「竹」を描いた作品だったと思うけど、それまで重たい振動としてあったような点のつらなりが、まさに竹の葉が風でさらさら鳴るような軽い響きとなり、同時に、みっしりと充実し、ズレ込みつつ小刻みに反転する振動に埋め尽くされた空間だったものが、風が通るような隙間と広がりがみられるようになった。今回展示されている作品では、地響きのような重たい振動と、サラサラという軽くて繊細な葉擦れの音とが、同時に鳴っていて、同時に聞こえて来るような作品だったり、三次元的な(写生的)空間の広がりと、そのような空間が開かれる以前の、原初的な差異のアタックとしての「点」とが、同時に共存しているような、より複雑な組成の作品になっている。複雑になることで、以前の作品にあった、点のもつ無骨な「衝撃」力は、ややマイルドになってはいるのだが。(三次元的な広がりをもつ作品などは、洗練された水墨画のような美しさも持っていることに驚かされる、しかしこの美しさは、あくまで結果として「そうなった」ということであって、それが「目的」とされたものではないところに、その良さがあるのだが。)
●アートフロントギャラリーでの浅見貴子展「光りを見ている」は、6月24日まで。月曜休み。