「ふるさと以外のことは知らない」「市街地の家」(青木淳悟)

●雨があがったので、画材を買いにゆくことが出来た。京都へ若冲を観に行くためにとっておいた新幹線代まで、画材に化けた。両手で抱えきれないくらいの荷物をもって、駅からアパートまでの緩い登り坂を上って帰る。汗だくになる。
●『いい子は家で』(青木淳悟)から「ふるさと以外のことは知らない」と「市街地の家」を読んだ。
「いい子は家で」が、主人公の男(次男)の身体的な空間触知によって、いわば内的な感覚の延長としての「家(≒母)」の感触を描きだそうとしていたとすれば、「ふるさと以外のことは知らない」では、外側からの分析的分節によって「家(≒母)」を記述しようとしているように思う。鍵の管理の話からはじまり、家の中のもの、家の空間、それらと母との関係、日々の営み、所作、そして記憶などの記述の積み重ねによって、決してその内部(内面)に立ち入ることなく、家との関わりかたの有り様全体を通して、「母」という存在を小説のなかで立ち上げようとしている。記述は、意図的に紋切り型の表現や慣用表現などが多用され(つまり、作家独自の内的感覚が際立つ「いい子は家で」とはまったく逆で)、記述者の視点や感情が出来る限り感じられないような、そっけない書き方がなされている。(しかしそれでも、この小説を注意深く読むならば、「いい子は家で」を先に読んでいなかったとしても、この記述が「次男」の視点からのものであることは分るように書かれていると思われる。一見、第三者的な記述が「次男」自身に触れる時の微妙な屈折感も面白い。)「いい子は家で」と「ふるさと以外のことは知らない」との関係は、「クレーターのほとりで」の、1部と2、3部との関係に対応するようにも思われる。ここでは、一見クールな記述が積み重ねられてはいるが、最後の方まで読み進むと、この異様なまでの「母」への執着が、不気味な感触を漂わせるまでになる。
●この小説を読んでいる時にまず思い出されたのが中上健次のことだった。一昨年の末、必要があって中上健次の主要な作品を改めて読み返したのだが、その時もっとも強く感じたのは、この作家はなんて「甘ったれたお坊ちゃん」なんだろう、ということだった。中上健次の小説の語りは、母や姉といった、身内の年上の女性に対するべったりとした依存の感情を動因として語りだされていることが、手に取るように感じられたのだ。勿論そこには、父や兄といった存在や、複雑な血縁関係という、語りを生み出す場を緊張させる要素(これを批評的距離といってもよいのだが)が作動してはいるし、それによって「小説」に成り得ているのだろうけど、しかし、その(恐るべき)語りの力動を根本的に支え、生み出しているのは、身内の女性にべったりと甘えたいという感情であり、その裏返しとしての、母系的権力に対する「鬱陶しい」という否定的感情であり(この否定の感情こそが、架空の父龍造を作り出すのではないか)、これはどちらにしろきわめて幼稚で退行的に力の場なのだ。(中上健次の小説の語りの場においては、母よりむしろ「姉」の方がずっと重要であるように思われるのだが。『地の果て、至上の時』の語りの停滞が、モンという、母というより「姉」的な女性によって救われるところなどを読むと特にそう思われる。姉的な存在としての「おばさん」。)
●もう一人思い浮かんだ作家が保坂和志だった。この作家の小説世界は、セックスと暴力が排除されているとよく言われるが、それよりももっと徹底して避けられているのが家族であるように思われる。息子や妻(これはどちらも「大人になってから出会う家族」だ)が登場することはあるのだが、(生まれた時から否応無く受け入れるしかない)両親や兄弟、姉妹が登場することはない。『カンバセイションピース』の「家」が、実家ではなくて叔父の家だという「距離」の微妙な操作が、この小説の世界(の開放性)を決定しているように思われる。『季節の記憶』の松井さんとその歳の離れた妹の関係は、親子でもなければ普通の兄妹ともちょっと違うという、絶妙な設定だろう。(「なっちゃん」の微妙さは、母という匂いが強過ぎる点にあるのかも。)
例えば「この人の閾」では、「ふるさと以外のことは知らない」と同様に、夫と息子が出かけた後の、一人で家にいる主婦が、つまり、夫と息子との時間から外れたの「隙間」の時間の有り様が描かれている。しかしここでの主婦の女性は、「母」という感触を持たされることが周到に避けられている。この女性はあくまで「大学の先輩の真紀さん」として、後輩の男性の視点から捉えられる。保坂和志の小説の成熟した安定感は、家族的な場(家族的依存、そして愛憎)の排除によってもたらされているのではないか。逆に言えば、家族から切り離された「個」となった人物のみが、保坂的「家」への出入りが許される。(だからおそらく「秋幸」は入れてもらえない。)
青木淳悟の『いい子は家で』に収録されている作品においては、父や兄という存在がきわめて希薄であり、そのような場としての、「家≒母」である「実家」が舞台となっている。(最後の短い作品「市街地の家」で、いままで希薄だった父の姿がさらっと、しかしとても印象的に描かれている。これは普通に上手い短編小説みたいになっている。ここでは父こそが最もべったりと母に依存しているというわけなのだった。)これらの小説では、ほぼ家そのものと化している母と、その母の勢力圏内に留まりつづける次男が描かれる。ここには、中上健次の小説のような父や兄はいないし、保坂和志の小説のような自立した個もいない。しかし、だからといって、母と次男とのべったりとした依存関係がどろどろと前に出て来ているというわけでもない。「いい子は家で」には、母の管理が行き届いていない空間として、彼女のマンションがあるし(しかし、そこからは結局逃げ帰ってしまうわけだが)、「ふるさと以外のことは知らない」では、あくまで外側から観察されたような(紋切り型や慣用句が多用される)、物や空間に沿った分析的記述がある。それらによって、ある一定の距離が生まれている、ということも、確かにあるだろう。だが、それよりも重要なのは、これらの小説では意識的に、「家≒母」が記述対象(主題)として選ばれているという点にあるのではないか。つまり、母について、母への依存についてわざわざ「書く」という行為そのものが、母との距離を測るということであり、距離を「つくる」(母から離れる)ということでもあるのではないだろうか。その過程の微妙な行き戻りの感触が、これらの小説に振動として刻み込まれている、と。