『いい子は家で』(青木淳悟)

●『いい子は家で』(青木淳悟)に収録されている「いい子は家で」を読んだ。とても面白かった。「新潮」に掲載された時に読んで、感想も書いている(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/searchdiary?word=%a4%a4%a4%a4%bb%d2%a4%cf%b2%c8%a4%c7)けど、この時の読み方はちょっと粗かったかもしれない。この時は、主人公が彼女のマンションの部屋で「変身」してしまう場面を、ちょっと文学的過ぎるけど「ギリギリセーフ」みたいに書いているが、今回読んで、この場面が凄いと思った。いや、変身してしまうところはともかく、「人間に戻る」ところが凄い。四つ足で歩いて靴下を探していて、たまたま手袋をみつけたことで人間へと戻って来るみたいな場面は、(それ以前の場面で何度も、「靴下」へのこだわりが母親の管理と結びついて描かれていることも含めて)この作家のもつ独自の想像力というか、身体的記憶の感触がとてもなまなましく現れているように思う。この場面に限らず、この作家が書く一つ一つの細部はにいちいち説得力があるから、一見関連性の薄い細部が断片的に並べられているようにみえて、互いが深いところでがっちりと関係していて、響き合っているように感じられるのだろう。先が読めない展開も、たんに先が読めないように仕組くまれているというのではなく、そこに(そうでしかあり得ないという)必然性があるように感じられるのだ。小説としての形式によって組み立てられているのではなく、あくまで作家が自分の感覚を忠実に掘り下げるようにして、それを拠り所に組み立てられているからこそ(つまり作家自身も「意識的」にはコントロール出来ないであろうところにまで踏み込んでいるからこそ)、意識的な構築には還元できない深さや動きが生まれているのだと思われる。(でもそれは、シュールレアリスム的な自動書記のようなものとは、まったく別のやり方で掘り下げられているように思う。)ある意味、もっとも恥ずかしものであろう「身内」の感覚を、こんなに晒してしまっていいのだろうか、とも思われるほどだ。兄の手首を掴んだらセラミックの筒に覆われていた、という場面など、読みながら、実際に、ふいにセラミックに触れてしまったかのような冷たい感覚がよぎったくらいだ。
だからこそ一層、ラスト近くの、父親の身体からタールのようなものが流れ出す場面が、他から不自然に浮いてしまっているように、ぼくには感じられてしまう。この場面は、いかにも「小説」としてのクライマックスを意図的につくろうとしていて、それまで丁寧に、自身の感覚に忠実に重ねられて来た細部を裏切っているように思われる。いや、これは「小説」としてのクライマックスをつくろうとしたのではなく、この小説においては、作家が父親を捉えることに失敗している、そこにまでは至ることが出来なかった、ということなのかもしれない。
●それにしても、この作家の、空間の身体的な触知能力(外側にひろがる空間の有り様を、身体内部の記憶-幻想と混ぜ合わせることで敏感に察知、分節する能力)と、その感覚を「小説の細部」へと変換して造形する能力には独自のものがあるように思われる。そしてそれは、(この小説に関しては)いわゆるエクリチュールの次元で働くものではないように思う。つまり、言葉(象徴界)の作動によって現実のイメージ(想像界)が形作られ、あるいは歪んでゆくというような(ルイス・キャロル的な)作家ではなく、むしろ、身体の延長として捉えられた世界像(想像界)によって、言葉(象徴界)が、鋳造され、鋳直されるという感じなのだと思われる。(それは例えばガイナックスのアニメで、金属的な硬質さと、有機的なぐちゃぐちゃ感とが、裏腹なままで一体となるイメージが実現する場として「ロボット」が造形される感じに、ちょっと近い気がする。青木淳悟は、もうすこしクールだと思うけど。)