●展覧会の後片付け、およびギャラリーからの搬出。それが午後2時からだったので、その前に目黒まで行って、庭園美術館でアンソール展を観た。
1880年代前半の、初期の写実主義的なアンソールを何点かまとめて観られたのはとても良かった。特に、圧倒的に素晴らしかったのは「オーステンドの大眺望(オーステンドの屋根)」(1884年)で、この1点を観られただけでも、この展覧会に来てよかったと言える。アンソールは基本的に「光」を描く画家であり、「物」を描く画家ではないと思う。その光は、溢れるような過剰な光ではなく、鈍く、弱く、そして複雑に屈折しつつ、空間を満たし、そこに留まる。その光は、目が普通に捉える光と言うよりも、油絵の具の、分厚く物質感を感じさせる不透明な層と、下の層の色を透けさせる半透明な色彩との、複雑な絡み合いが構成されることによってはじめてそこに出現するもので、つまりそれは光そのもの表象ではなく、光の「ある状態」を作り出し、感じさせる(出現させる)、一つの構築物なのだ。そして、そのような資質が最も際立って発揮されるのが、画面の多くが「空」で占められる何点かの風景画だろう。空は雲に覆われ、雲を通過してきた光は、屈折し、縮減され、その度合いは雲の厚さや形状などで場所によってそれぞれ異なるので、その透過光は様々なニュアンスを帯び、それが雲を通過した地上に近い上空に広がり、かすかに振動しつつも、そこに留まる。晴れ上がって突き抜けるような空ではなく、重たく雲がかかり、細かい水の粒子が空中に散らばっているような空を、鈍く、やや濁った光が、様々な表情、様々な濃淡によって満たしているのだ。光や色彩は濁っていたとしても、広がりとしての空や画面空間は濁ってはいなくて、そこには、濁ったものの澄んだ響き合いが成立している。「オーステンドの大眺望(オーステンドの屋根)」では、画面の下の方(地上に近いところ)に僅かに連なる屋根の赤が、この複雑に澄んだ光(濁ったものの澄んだ響きによって感じられる光)に浸食されて、半ば透明化しているのだが、この赤い屋根たちの描写がまた素晴らしいのだ。この屋根たちが、半ば透明化して描かれていることによって、その上に広がる雲のかかった空に広がる様々なニュアンスの光の響き合いを、一層澄んだものに感じさせている。この空は、外部に向けて広々と広がる大きな空間を感じさせるのと同時に、(様々な複雑な屈折によって、空間自らが発光しているような感じを生むことで)どこか閉ざされたような感覚をも生み出している。(空間自身が、自らの内側に向けて発光しているような感じが、ある種の精神性のようなものを感じさせてもいるだろう。この点でぼくは、初期の小林正人の絵画と通じるものを感じた。)
美術館の2階への階段を登った正面に展示されているこの作品は本当に素晴らしく、これこそが絵画であり、油絵の具を使った絵画にしか生み出せない「(ある光の)感覚」をつくり出している。このような「質」をもった感覚は、この絵を「観ること」によってだけ(観ている間だけ)、それを観ている人の頭の中に生じるのみなのだ。つまりこの絵の意味は、この絵を観ることによって生じる「(ある光の)感覚」そのもので、それは他のものでは代替出来ないし、言葉によって説明することも出来ない。
●一方、グロテスクなものたちの、カーニヴァル的な構成によってつくられるようになるそれ以降の絵画においては、初期の写実主義の作品にみられるような意味での、絵画に固有の高度な「感覚の質」はもはや観られない。それはほとんどマンガのようなものであり、そこから「意味」を汲み取ることによってはじめて、ある感覚へと人を導くようなものだろう。例えば、アンソールの細密描写は決して下手ではないものの、それ自体では特筆するほどのものではない。色彩の追求も極めて甘いものになり、(極端な言い方をすれば)ほとんど「心理学的な効果」の域を出ないような、安易な効果に従って構築されているようにしか見えない。つまり絵画的な「感覚の質」を問題にする限り、この時期のアンソールはきわめてありふれた、凡百の画家であると言える。しかし、だからと言ってその作品が全くつまらないわけではない。いくつかの作品、例えば「首つり死体を奪い合う骸骨たち」(1891年)などは、グロテスクなものたちを組み合わせる特異な構成や、比較的しっかりした絵画的構築などにより、人の内側にあって閉ざされて腐りつつある何ものかを響かせるような、曰く言い難い感情や想像力を刺激し喚起させるという意味で興味深いものではあると思う。そしてその感情は、「オーステンドの大眺望(オーステンドの屋根)」のような初期作品の感覚の質が想起させる、ある種の精神性のようなものと、決して無縁ではないという感触もある。
●驚くのは最晩年、だいたい1930年以降くらいの作品で、この時期の作品は、それ以前のアンソールのものとはほとんど何の連続性もない。ぶっちゃけて言えば、ここまで行っちゃうと、完全に向こう側へ行っちゃっている人の絵であって、これらの作品を「アンソールの作品」として扱う意味はほとんどないように思う。この時期のアンソールの絵は、たんに「破綻」している。あまりに幼稚な形態把握、全く抑制を欠いた毒々しい色彩、コントロールされていないどろどろの絵の具の質、必要以上に安定した(シンメトリカルで三角形的な)単調過ぎる構図、と言うか空間把握。これらの作品が、何かしらの新たな形式への探求によってつくられたとはまず考えられない。つまり、これらの絵を解読し、研究し、あるいは楽しむとしたら、それはアンソールの絵としてではなく、「電波」の入った人の絵として扱う以外にないと思う。(アンソールの生地は「オーテンドー」ではなく「オーステンド」だという指摘を受けました。訂正します。05/06/04)