●ゆっくり寝ているつもりだったのに朝早く目が覚めてしまう。疲れが残っている。延滞していた本を返しに図書館まで歩く足取りも重い。
●半年くらいかけて書いた短い小説(タイトルは「セザンヌの犬」)を発表できる目途がたった。とてもうれしい。
●一昨日のことだったか、尾道の駅前ロータリーのベンチで休んでいたら、アンケートへの協力を求められた。だが、むしろこちらが聞き返す感じになった。「これから、なにをされる予定ですか」「ええと、なにかおすすめはありますか」「どこか、ここを見ようという場所はありますか」「ここは見とけ、というのはどこですか」「お土産は何か買われましたか」「この辺りはなにが名産なんですか」。
で、お土産のところで、「いやあ、広島が近いので、みなさんどうしても、もみじまんじゅうということになってしまうんですよねえ…」と残念そうに言っていたのが印象に残った。調査の客観性という点からみればこのような態度はどうかとも思うけど、そんなことはどうだっていい。
●『贖罪』(黒沢清)の一話をDVDで。黒沢清による描写が切れ切れ。お話としては、まったく凡庸なトラウマものなのだけど、黒沢清は、話がつまらない方がかえって分に発揮できるのではないかとさえ感じた。面白いとか面白くないとかではなくて、ただ、示されているものがすごいという感じ。冒頭のカット---転校生を迎える教室の様子を出入り口からのカメラでとらえたもの---からすごい。そこでとらえられる子供たちの表情は、一人一人それぞれで転校生に対する関心や受け止め方が全然違うことを示す多様性をもちながら、教室全体としては、転校生が来たという未知の出来事に浮足立っている感じがなまなましく伝わってくる。それが、ほんの一瞬のワンカットでぐわっと一挙に押し寄せてくる。
ほとんど目の前で同級生が殺された上に、その被害者の母親から「呪い」をかけられたというトラウマをもつ女性が主人公なのだが、ここで物語的、キャラクター的には、その女性(蒼井優)も、その女性と結婚することになる男性(森山未来)も、まったくの紋切り型でしかないと思うけど、描写によってそれが超えられてゆく。これは基本的に、女優によって成立している女優の映画でもあって、森山未来は自分の演じる役の役割(機能)に徹していて抑え気味だとは思うけど。ただ、映画で重要なのは「演技」というより「描写」で、つまり、蒼井優がどの場面でどのような顔をした(これが「演技」だとすると)ということだけではなくて、そこで撮影された「この顔」を、どのようなタイミングで、どの程度の長さ見せるのか、ということがあってはじめて描写となる。蒼井優が実際にどのような顔をしたのか、ということと、その「顔」を映画の流れのなかでどの位置に配置するのかということとの、両方が合わさって「描写」となる。
たとえば、結婚することを決めた女性がはじめて男性のマンションを訪れた場面で、そのあまりの豪華さに、「エミリちゃん(殺された同級生)のうちより立派かも」と言って、からだをぐーっと伸ばす描写がある。つづけて、「わたしにこんな未来がくるとは思ってもいなかった」というようなことを言う。おそらくこのセリフとこのしぐさは、この物語上で唯一、ここでだけ女性が「呪い」から解放されていることを示す(実は解放などされていなかったことがすぐに明らかになるのだが)。それまで閉ざされていた女性のこころが開放されている瞬間であり、この映画ではそれが(他の場面では隠されていることの多い)「脚」の大胆な露出によって表現される。ここで、脚の露出にともなう解放感と同時に、今まで罪の意識による強い抑圧として作用していた「エミリちゃん」への感情が「優越感」として反転的に出てきてしてしまうのが人のこころの恐ろしいところだ。だが逆に言えば、こごで「エミリちゃんに勝ったかも」と一瞬でも思ってしまったということへの疾しさが、女性をさらなる「呪い」の深み(結婚生活は「脚の露出」から「人形的不動への拘束」へ反転し、女性はそれを自らへの罰であるかのように受け入れる)へと導くことになる。「呪い」とは、そこからの解放を「疾しさ」として感じさせるような把捉装置だ。
このような描写の絡まりに比べれば、女性のトラウマの内容や、男性のいかにもありがちな身勝手な人形愛などの物語的な意匠の凡庸さや、ありがちな物語の展開は、ほとんどどうでもよくなってくる。