●竹橋の国立近代美術館で、14の夕べ、小林耕平(+山形育弘)の回。ちょっと、どうしたらよいのか分からないというくらい興奮した。小林耕平の話に興奮しすぎて、小林耕平の話を落ち着いて聞いていられないくらいだった。小林耕平の話によって導かれた「気づき」が頭のなかでぐるぐるまわって、それを必死で追いかけて、それについて考えるのが精いっぱいで、後から入力されてくる情報をきちんと拾えないという感じ。
驚いたことに、小林耕平の話はついちょっと前にぼくが尾道でした話とすごくかぶっていた。ほとんど同じ主題についてのものだったとさえ言える(自分本位の捉え方かもしれないが、ぼくにはそうとしか思えない)。しかし、小林耕平の話の方が、三歩も四歩も、いやもっとぐっと深いところに届いていた。いやもう本当に、そうか、そういうことだったのか、目から鱗が落ちた、という感じで、今まで自分が考えていたいろいろなことがパーッと繋がって、さらにその先までの眺望がダーッと開けた感じ。
ぼくがずっと「変換」という言葉で考えていたことを、小林耕平は(ここでのパフォーマンス=思考の元となっている伊藤亜紗のテキストに従う形で)「属性の貸し借り」という言葉で考えている。そしてそれを「タイムマシン」という概念と結びつけている。何よりすごいのがこの結びつきだ。この結びつきは伊藤亜紗のテキストに既に書き込まれているものだが(このテキスト自体もとても面白いものだけど)、小林耕平はそれを受けて、この結びつきにより一層の深さと広がりを与えていた。
伊藤亜紗によるテキストはアイデアとして非常に優れたものだと思う。しかしそれはあくまでアイデアスケッチであり、とくに結論部分は性急にきれいにまとめられてしまっているように思われた(それが簡単に言えるのなら苦労はしない、というか)。そこに小林耕平は、いくつもの装置を差し入れることで、いくつもの「横道」と「つまずき」を導入し、それによって思考のなかに世界の深さと具体性とが絡め取られてゆく。このような知性のあり方に、ただただ圧倒されるしかない。前から小林耕平はすごいと思ってはいたけど、こんなにまでもすごいとは思わなかった。
「気づき」は瞬間的なものだとしても、それに正確な表現形を与えるのには時間がかかる。あるいは、「気づき」は瞬間的に訪れるが、次の瞬間にも「ここ」に留まってくれているとは限らない。小林耕平の装置やモデルたちは、いわば、くしゃみを誘発する「こより」のようなものとして、「気づき」の誘発のための(「気づき」を繰り返し呼び込むための)ヒントであろうとするような物ではないだろうか。
とにかくぼくは、今日、得られたことについて、何年も何十年も、きっと考え続けるだろう。自分がそれを受け止め、咀嚼できるかどうかわからないほど巨大な何かが突き付けられた。世界に対する巨大な開けが、確かに起こった。だが、この(巨大で複雑な)興奮をぼくはきちんと正確に保存することが出来るだろうか。
●今日のこの催しのことは、尾道でお会いした「小林耕平と予備校で同僚だった」という人に教えてもらった。だからそもそも、尾道に行かなかったらこの場を経験することは出来なかった。そして、尾道での経験と、今日の経験とはぼくのなかでは明確に響き合っている。