2023/12/26

⚫︎90年代に何度かVHSで観て以来、ずっと、もう一度観たいと思って観られないままだったジョン・ヒューストンの遺作『ザ・デッド』が違法アップロードされているのを見つけたので観た。字幕なしだったので、本棚から古い文庫本『ダブリン市民』(安藤一郎・訳)を引っ張り出して「死せる人々」を読む。エピソードの順番が微妙に違っていたり、多少の省略があったり、登場人物の外見的特徴が、小説の描写と映画で演じている俳優とで食い違っていたりはするが、ほぼ原作に忠実なのだな、と思う。

年末恒例の、親戚や古い知り合いたちの集まるパーティー。二人の年老いた叔母と中年になったその姪という三人の女性の住む屋敷で、彼女たちの主催で行われる。楽しくないということはないが、色々気遣うこともあり、気が重くないこともない。集まってくる人々には、長年親しんだ馴染みの感覚もあり、一定の愛情を感じてもいるが、気のおけない仲間ということでもない。親戚という集団は、昔馴染みではあるが、普段属しているコミュニティや趣味や思想的傾向はそれぞれバラバラなものたちで、そもそも会話などは噛み合わないし、時に対立的な緊張を孕む。そして、親戚たちの会合というような場は、浮世の時間の流れから切り離された独自の非現実的ウラシマ感が漂う。それでも、人々が集まり飲み食いする場には、それなりの感興があり、盛り上がりがある。まず、このような会合が、割合とあっさりと、手際良く描写される。まず、この感じがとても良くて、感じるものがある。

(たとえば大島渚アンゲロプロスならば、このような会合が孕む「政治的緊張」を、とても高度な映画的形式で浮び上がらせるが、ここでは、関係が孕む緊張も、それを表す映画的な形式も、的確に描写され処理されるという以上の重みを持たされず、このような場のもつ、懐かしさと愛着・気の重さ・疎ましさ・アナクロさ・感興・喧騒というもののそれぞれの感じを、絶妙なバランスの配分として成立させているように思う。)

そして、そのような喧騒の場から離れ、夫婦二人きりに戻った時の、祭りの後の寂しさ的な空気の中に、ふっと、重たい死の影が雪のように降りてきてその場を満たす。この唐突な転調。すごい傑作とは思わないが、さらっとしつつも丁寧な描写の積み重ねの後に、不意に重たい死の色で染められて終わるこの感じが、しみじみと良い。

二十代で観た映画を五十代になって改めて観るという経験は、五十代にならないとできないのだな、という当たり前のことを思う。