●「ことばの錯覚」(小鷹研理)の下のリンクに記事を読んで、『三月の5日間 リクリエーション』にかんしてまったくノーチェックだったことを後悔した。
http://kenrikodaka.hatenablog.com/entry/2018/02/19/081714
チェルフィッチュにかんしては、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』を観た時に(DVDを買って観たのだが)、ぼくにとっては刺さってくるものが何もなくて、ここまで社会派化したチェルフィッチュは、もうぼくとは関係のない方向にすすんでいくのだろうと思ってしまった(正直、その時のぼくには社会派コントにしか見えなかったし、パフォーマンスも面白いとは思えなかった、バッハも、無理やりとしか思えなかった)ので、その後の情報をまったくチェックしていなかった(住んでいる場所的に、パフォーミングアーツ全般への関心が遠くなったということもあるけど)。
しかし、もともとチェルフィッチュには、極端に「社会派」の方向へ振れる時と、そうでないとき(物語内容と無関係に、まさに「複数性の倫理」を露呈させるとき)とがあるので、一方の極だけをみて簡単に判断してはいけなかったのだと強く反省した。
(まあ、でもそれだけ、ぼくにとって『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は衝撃的なまでにつまらなかったということだけど……。チェルフィッチュを観て、こんなにもまったく心が動かされないなんてことがあり得るのか!、という、ネガティブな方向ですごく驚いた---ショックを受けた---のだった。)
しかし、なんといってもチェルフィッチュなのだから、(というか、一人のアーティストが)そんなに単純であるはずはなく、様々な要素が常に絡まり合いつつ押し合いへし合いしているはずで、局面によってその都度まったく別のものが出てくるのは当然であるはずだ。それはつまり、たまたま自分とは接点を感じられない作品があったとしても、そんなに簡単に、それまでやってきたそれとは別のこと(別の要素)がまるっきり消えてしまうわけはない、ということでもあるのだ。愚かだった。