●小鷹研理さんのツイッタ―で下の動画を観ていて思ったのだけど(直接関係あるわけではないけど)、ぼくは時々、目が覚めて、自分の手の位置がよくわからなくて、しばらく(と言っても、ほんの数秒だけど)手が動かせないことがある。
https://twitter.com/kenrikodaka/status/908671597141094400
https://twitter.com/kenrikodaka/status/908672917352751104
https://twitter.com/kenrikodaka/status/908674371568361477
https://twitter.com/kenrikodaka/status/908676992010031106
ぼくには、寝つきが悪い時にとる姿勢というのが二つあって、一つは、からだの左側を下にして胎児のようにまるまる姿勢で、もう一つは、あおむけになって背筋を伸ばすように、両手を万歳みたいに上に伸ばす姿勢。それでも眠れない場合(布団に入って一時間くらいしても眠れないという時)は、最終手段として、からだの向きを逆にして、枕の方に足を、足の方に頭を、という向きになる。逆向きになっただけなのに、眠れない時はこうするとかなり高い確率で眠れる。この最終手段でもダメな場合は、いったんあきらめて起き出して、本読んだりする。
で、この二番目の姿勢で眠って、そのまま目覚めると、目が覚めた時、手の位置がわからないことがある。いや、手があるかどうかがわからない。なんとなく肩をゆすったりすると、それにつられて腕も動くので、手の在り処が察せられて、ようやく「動かせそうな感じ」になる。でも、実際に動かしてみるまで、あまり自信はない。
おそらく、手先の血流がやや悪くなっていることと、普通に目覚める時とかなり違う位置に手があることが合わさって、そうなるのだと思われる。この姿勢でなくても、横向きで寝ていて、目覚めた時に左右の手が絡まって、位置が逆になっているような時も、手がどこにあるのかわからない感じになる。
この場合、「手の位置」とは何なのだろうか。金縛りではなく、なんとなく肩をゆすったりは出来る(肩の位置は見失わない)から、「わたし」から「肩」までの距離は、「わたし」から「手」までの距離より近いと言えるのだろうか。その時の「わたし」とは、からだのどの部分なのだろうか。
ただ、金縛りにあっているときは、「手の位置がわからない(手があるのかわからない)」という感覚はなくて、肩も、手も、あって、同じくらい「動かない(動かし方がわからない)感じ」だと思う。そして、金縛りでは強い恐怖が惹起されるけど、「手の位置を失う」時には、それほど恐怖は生じない。
肩の位置は、身体の構造でだいたい決まっているけど(正中線に対して、左右の肩が逆転することはほぼ考えられない)、手は位置取りの自由度が高いので(左右の手の位置は頻繁に逆転する)、手の位置は常に確認が必要なものとして開かれているから、それを見失うこともある、ということなのだろうか。
左手自身のもつ、左手という感覚と、その手が、正中線に対して「わたし」の右側にあるのか、左側にあるのか(あるいは、からだの前面にあるのか、背面にあるのか)という感覚とは分離していて、その分離があることが、「位置取り上の混乱」を生む可能性なのだろうか。
一人称的な「わたし」というのは、視点というより、正中線として立ち上がっているのかもしれない。それにより、前後、左右、上下が決まる。そして、無意識的に作動している正中線を意識化する時に呼び出される身体部位が、鼻とか臍とか、印を結んだ時の親指とかなのではないか。
(これは、水野勝仁さんの「鼻」への注目につながるか?)
(ジャコメッティの、異様に長く伸びた鼻とか。)