●英語字幕つきの『草迷宮』(寺山修司)がYouTubeにあったので観た(著作権をクリアしているのか分からないのでリンクは貼らない)。1978年フランス製作の映画。相米慎二が助監督としてクレジットされている。
おそらく、初期の短篇から『田園に死す』までの寺山の映像作品は、天井桟敷でやっている仕事の延長で、つまり前衛であり実験であり、従来の「映画」に対する批判・挑発という側面が強い。しかし、77年に東映で菅原文太、清水健太郎主演でつくった『ボクサー』を挟んで、この『草迷宮』から、大雑把に言えば解体から構築へという方向に変化しているように思われる。批判的挑発姓よりも、1つ1つのイメージを丁寧にみせることが優先され、そして「これが映画である」ということが充分に意識された形で作られている。
ただその分、実験的な前衛芸術家としての野心は低めというか、それ(1つ1つのイメージ)がちょっと分かりやす過ぎる形でまとめられているように思えた。要するに、「母」というオブセッションに取り憑かれて、「母」の支配下から逃れられない男の話で、あらゆるイメージ(イメージの連鎖や展開)が、そのようなもの(母というオブセッション)に繋がるものとして簡単に解釈可能であり、そこから逸脱する動きや別の系列をなす展開がないし、批判的(メタ的)な眼差しもない。その意味では、謎はないし、驚きもあまりない。
(たとえば、母の象徴として毬などの球形があるとすれば、母からの逃走線として直線的な「帯」がある、という程度のイメージ対立。)
では退屈かというとそうではなく、丁寧につくられた1つ1つのイメージは充実していて、「青年」と「少年」をクロスさせるモンタージュも注意を持続させる程度は複雑で、観ていて楽しく、惹きつけられるし、好きか嫌いかといえばけっこう好きだ。映画としてのクオリティはこれ以前の作品に比べ格段に高くなっていると思う。ただ、刺激的というほどのことはなく、ある種の美的趣味を満足させてくれる程度に充実しているというところに留まる。
この作品の映画としての野心は、若松武(青年)と三上博史(少年)の二人一役にあるのだろう。二人の顔は違う(若松武には少年的な感じがない)のだが、しかしそれでも微妙に響き合うものがあり、ぼんやり観ていると見間違えそうな程度には(雰囲気として)似ている。年齢の隔たりもそれほど大きくなく、少年と中年というようなきっぱりした違いはないので、「違い方」が曖昧なのだ。「この二人の人物を同一人物とせよ」という規則が課せられたなかで、二人の場面が交錯するように展開し、その違いと重なりを感じることから、独特の味わいが生まれる(そしてこの二人の顔は、どことなく寺山修司の顔に通じている、トリュフォーとジャン・ピエール・レオーの顔が通じていると同じ程度には)。これは、「顔」を直接提示できる映画というメディアの特性を生かした配役だと思った。若松武は、母の影(≑手まり歌の歌詞)を求めて旅をしていて(つまり、母は不在で)、三上博史は未だ母の手の内におり、傍らにいる母に支配されている。
若松武と三上博史の二人一役に対して、伊丹十三が一人三役で出ている。ここで伊丹十三は独特の方言で喋るのだが、これはどこの言葉なのだろうか。寺山修司だから青森が舞台なのかと自動的に思い込んでしまいがちだが、あきらかに東北の言葉ではない(映画全体を見ても東北的イメージは感じられない)。泉鏡花の原作では舞台は秋谷(神奈川県横須賀市)だが、神奈川の言葉とも思えない(泉鏡花だから金沢なのかも…)。