●一昨日の日記に書いた作家論だけど、まるまる落としてしまって書けなかった主題こそが実は書きたかったことなのではないかという気がしてきた。というか、実際に書いた部分は、その主題について書くための前提というか、下地とか地塗りのようなもので、それについて書かなければ、そこまで踏み込んで書かなければ、その作家について書いたことにはならないのではないか、と。雑誌に発表するものについては、長さの制限があるし、これはこれとして成立しているはずだけど、それとは別に、発表のあてのないロングバージョンは、やはり書かなければならないという気がして来たのだった。九月の後半から十月にかけては、なにかと忙しい感じなのだが、集中して読んだ感触を忘れないうちに書いておかなくては、と思うのだった。
●必要があって、残雪という中国の女性作家の短編をいくつか読んだのだが、これがとても面白くて驚いた。最初期の「阿梅、ある太陽の日の愁い」という作品から引用する。
《わたしと大狗(ターコウ)の父親は八年前に結婚したのだった。結婚前の五ヶ月、彼はしょっちゅうわが家にやってきた。来るが早いか台所に跳びこみ、母とこそこそ何事かを相談していた。ふたりして中でしゃべったり、ゲラゲラ笑ったりしているうちに、食事の支度さえ忘れてしまうこともしばしばだった。あのころの母は年じゅう例の真っ黒な前掛けをしめ、ときには朝起きても顔も洗わず、ニンニク玉のような腫れぼったい目をしていた。しかし彼が来るやいなや、母の目はたちまち嬉しげにギラギラ光り、むっちりした両手は真っ黒い前掛けをごしごしとこすりはじめるのだった。老李(ラオリー)は(あのころわたしは大狗の父親を老李とよんでいた。他のよび方を思いつかなかったからだ。)背が低く、顔には紫のニキビがたくさんあったが、顔立ちはまあ整っていた。ある日、わたしが台所にものを取りにゆくと、彼は母に寄り添ってニンニクの皮をむいており、どちらも喜色満面だった。だがわたしが通りすがりに彼の服にかすると、彼はとたんにぎょっとしたように跳びのき、こわばった顔でいった。
「こんにちは!」
彼の声もわたしをぎょっとさせた。わたしは奥に駆けこんでものを取るなり、一目散に外へ逃げ出した。うしろで母が声高にいうのがきこえた。
「あの娘ったら、昔から眼中に人なしなのさ」》
《それから彼は、すぐにも彼と結婚しないかとわたしにいった。顔は土気色で全身が苦しげに痙攣している。やがて彼は低い腰掛けを見つけて座った。腰掛けは黒ずんでべとつき、一本の脚のホゾがゆるんでいたためぐらぐらしていた。彼はあれこれ理由を並べたが、要は、母が一軒の家をもっているということで、もしわたしと結婚すればここに住めるから、ほかに家を探さずにすむというのだ。わたしがぷっと吹き出すと、彼はたちまち真っ赤になった。
「なにがおかしいんだ?」彼は怒ったようにいうと、いかめしく顔をしかめた。
「だって、これから手紙を書きにいこうと思っていたのに、こんなところであなたの長ばなしを聞くはめになったのだもの」
「何だ、そんなことか」彼はほっとため息をついた。》
《その晩帰ってくると、家の一角にはもう中二階ができており、うすぎたない蚊帳まで吊ってあった。
「これからは、ここで寝るよ」彼は蚊帳の中からぼそぼそといった。「おれはひとり寝に慣れているもので、あんたと一緒だとどうも怖くて眠れないんだ。ここなら、いくらか落ち着いて眠れると思うよ。何か文句あるかい?」
わたしはもぞもぞと二言三言つぶやいて、返事をしたことにした。》
こういう部分だけを抜き出して並べると、ちょっと「まとまった」(主題が透けて見える)感じになるけど、全部をつづけて読むと、もっと得体のしれない、とっ散らかった感じなのだ。