⚫︎『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ)を改めて観直した。この映画の前半では、半地下の家族がお金持ちの家族にパラサイトしていく様が、これ以上ないというくらい滑らかに描かれている。前半では、半地下の家族たちのやることは、嘘のようにことごとく上手くいく。彼らは、あれよあれよという間に金持ち家族のメンバーたちの信頼を勝ち得ることに成功し、(ほんの一晩ではあるが)金持ちの邸宅を自分たちだけのものとして使用することに成功する。この、「すべてがうまくいく」状況は、しかし、彼らの策略によって退職させられた旧家政婦の来訪によって流れが一変し、終盤のカタストロフに一直線に向かっていくことになる。
今回観直して気づいたのだが、すべてが滑らかに上手くいっている前半に、微かにではあるが、後に悲劇へと至るタネとなる齟齬が仕掛けられていた。半地下の、父、母、息子、娘は、金持ち家族のメンバーたち(夫、妻、姉、弟)から全幅の信頼を得ているように見えるが、ただ、半地下の父と、金持ちの夫との間には微妙な齟齬があり、金持ちの夫は、半地下の父を完全には信頼してはいない。
金持ちの夫は、運転手である半地下の父に車中で「妻は家事ができないし、料理も下手だ」と言い、だから早急に新しい家政婦が必要だと言う。それに対し半地下の父は、「でもそんな奥さんを愛していらっしゃる」というような言葉を返す。ここで金持ち夫は、わずかだが明らかに不快を感じている様子を見せる。「お前がそこ(夫婦の関係)まで立ち入ってくるな」という感じ。しかしここで金持ち夫は運転手(半地下父)をとがめることはせず、不快感を飲み込んで、相手に調子をあわせる。
(このやりとりは終盤のパーティーで反復され、その時には金持ち夫は不快感をあらわにし、「お前は雇われている身だ」と釘を刺し、これが半地下父の「殺意の発動を準備する」、第二段階となる。第一段階は、「におい」を指摘されることだ。)
限りなく滑らかに金持ち家族に取り入ったように見える半地下家族だが、二人の家父長(金持ち夫と半地下父)の間にだけ、微かな不協和があった。半地下父は穏やかで優しい性質のように見え、家父長であることを特にひけらかすこともない。しかしどこかで家父長であるプライドを捨てきれず、それによって金持ち夫との間にわずかな緊張が生じている。それ故、半地下父は「寄生」の身であることを徹底できない。
(日本語字幕では、半地下息子は半地下父に「敬語」を使っているように書かれているが、ここに「父」という位置付けが表現されているのかもしれない。)
少なくとも映画の前半において(後半はまた別だが)、半地下家族は、母も、息子も、娘も、金持ち家族に対して劣等感のようなものは持っていないように見える。金持ち家族はたんに別世界の人であり、そこから自分たちの利益を引き出せる「便利な対象」でしかないだろう。だからこそ「寄生」に徹することができる。しかし半地下父には、金持ち夫に対してどこかで微かなライバル視と、そこからくる劣等感のようなものがあるように見える。半地下父には、金持ち妻に対して、密かな憧れのような感情があったのかもしれない。
(半地下息子は、金持ち姉が自分に対してもつ好意を、「利用」して「騙そう」とするのではなく、自分もまたベタに好きになってしまう。ここに半地下息子の屈託のなさが現れており、彼が「金持ちたち」に劣等感を持つようになるのは「寄生(『身体がますますわからなくなる』の表現では「交換型パラサイト」の「夢」)が失敗した後のことだ。)
半地下家族の誤算(パラサイトの失敗の原因)は、想定外の「地下の住人(不可視のパラサイト)」の存在(+予想外の大雨)であるが、それだけだったら、半地下父が金持ち夫を殺害するところまでは至らなかっただろう。共に「家父長」であることによって、半地下父は金持ち夫を同等の存在と見做し(ライバル視)、そこから劣等感や理不尽感が生起する。半地下父はこの感情を抑制しきれなかった。
『身体がますますわからなくなる』では『パラサイト 半地下の家族』を、邸宅という器・体を巡る、三つの自己-身体システムの主導権争いとして捉えている。つまり、一つの家族(家族関係)が、身体諸機関・諸感覚のオーケストラとして、一つの自己-身体を構成していると見做されている。家族関係を一つの自己-身体システムだとすると、家父長とは、そこに現れる中枢のようなものと見なすことができるだろう。
半地下の家族が、金持ち家族の「接合型パラサイト」たることを目論んで出自を消そうとしても、どうしても残ってしまう自己の印として「におい」があると『身体が…』では指摘されている。ただこの「におい」に気づくのは、金持ち夫と金持ち弟だけだ(終盤には金持ち妻も気づき、この気づきに気づいた半地下父を凹ませ、これも金持ち夫殺害への動機の一つとなる)。とはいえ、金持ち弟にとって半地下の「におい」は特にネガティブなものではなく(むしろ、半地下の娘の持つ「親しい」においだろう)、ただ、家父長たる金持ち夫にとってだけ、「におい」が他者=敵を知らせるアラートとして機能する。そして金持ち夫が「におい」を感じるのは、別の家父長=中枢である半地下父に対してだけなのだ。
家族(家族関係)が、オーケストラとして、一つの自己-身体システムを構成しているとすると、家父長=中枢は、そのシステムの滑らかな作動そのものから浮き上がった、システムを代表するメタ・システムとしての「自意識」を形作っていると言えるのではないか。二つの(三つの)自己-身体システムがあり、システムの滑らかな作動や、失調があり、諸システム間の関係とその失調がある、とする。しかしここに中枢=自意識が生じていた場合と、それは二つの(三つの)中枢間の「緊張」や「葛藤」という形になってしまう。つまりそこに、「敵対的闘争」と「悲劇」が生まれる余地ができてしまう。
(地下住人の、金持ち夫への「リスペクト」もまた、家父長=中枢間の関係であり、その「敵対的(で、鏡像的な)闘争」の一形態であるだろう。)
『パラサイト 半地下の家族』の悲劇とは、パラサイトに徹することのできない中枢=自意識によって生み出されてしまう悲劇なのではないか。
(そしてこの映画は、最後に「父と息子」の話になって終わる。)
(この映画は「半地下の父」が「金持ちの夫」を殺害する話なのだが、そこで巻き添えを食うように「半地下の娘」もまた死んでしまう。なぜ、息子は生き残り、娘は亡くなってしまうのか。その理由が、最後に「父と息子の話」に収斂させたかったから、であるのならば、そこの部分は批判的にみざるを得ないかなあと思う。)
⚫︎この文章を書きながら、小鷹さんはこれにはあまり納得しないかもしれないと思っていた。家父長=中枢とか父と息子とか、それはあまりに人文的な価値観に偏りすぎではないか、と、感じるかもしれない、と。
⚫︎追記。金持ち家族は、最後の最後まで、自分たちのテリトリーの中で起きていることに気づかない。半地下家族による「接合型パラサイト」的な侵略にも、半端な中断を余儀なくされたとしても「交換型パラサイト」による入れ替わりが一時的に成立していたことも、さらに、可視的パラサイトである半地下の家族と、不可視のパラサイトである地下の住人との間で、激しい争いが起こっていたことも、邸宅という器の正式な自己-身体である金持ち家族の「意識」にはまったくのぼらない。せいぜいが、中枢である金持ち夫が、半地下の父のにおいに違和感を覚えることくらいが「意識化」されるわずかな印だ。ただし、金持ちの子供(弟)が、幽霊=地下の住人と出会って卒倒してしまったという事件が唯一の例外としてある。
(家族の中で最も「自由」に振る舞うこの「弟」は、地下の住人の発するモールス信号を正確に読み取ることもする。)
たとえ、地下の住人が地上に上がってきて、家の息子の家庭教師(=半地下の娘)が彼に刺されて、亡くなってしまうという大事件が起きたとしても、金持ち家族という自己-身体の「意識」にとってそれは「他人事」であり、それが自身の自己-身体に深くかかわる出来事だとはわからない。
それら、金持ち家族の「意識」にとっての不可視のまま進行する一連の出来事は、それが「半地下の中枢としての父」が「金持ちの中枢としての夫」を殺すという(金持ち家族の「意識」としては、どうしてそうなるのかまったく不可解な)事件として、中枢的で顕在的な表現が現れることで初めて、自身の自己-身体に深くかかわる一連の出来事を遡行的に(事後的に)意識化できる。
金持ち家族は、このような「意識(≒中枢)」の持つ鈍さと無能力を表現しており、そして「この作品」全体が、意識の知るよしもないところで進行する、自己-身体の、諸期間、諸感覚の間で進行している、さまざまな出来事の複雑な絡み合いを示している、と言える。