結局、自由になる、ということは、

●白と黒のシリーズhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/d070716.html(白い地に黒い線のみで描いているシリーズ)が、ちょっといい感じになってきた。このシリーズの制作を唐突にはじめたのが一昨年の秋頃で、この二年弱の間に、このシリーズの作品を何百枚と描いてきたのだけど、ようやく、描き始めた時にやりたかったことのイメージに多少は近づけてきた感じがする。最初は、(持ち運びが出来、どこでも描けるように)便せんに筆ペンで描くことからはじめた(コクヨの便せんに描いていたので、自分では「コクヨシリーズ」と呼んでいた)このシリーズも、スケッチブックに墨汁・毛筆で描くかたちに発展し、今では、紙のサイズがB1やB2くらいに拡大され、キャンバスにも描かれるようになり、筆も様々な種類が使われ、絵の具もアクリル系の黒(ブラックジェッソ)が使われるようになった。
結局、自由になる、ということは、上手くなる、ということなのだと思う。ここで「上手くなる」とは、おそらく次の三つの意味をもつ。(1)出来ることのバリエーションの幅が増える。(2)その増えた「出来ること」を、より複雑に組織化、構造化することが出来るようになる。(3)それを構造化する途中(つまり描いている時)、やろうと思ったイメージと、実際に画面上に実現されたこととの間には必ずズレがあるのだが、そのズレにより敏感になり、そのズレにより柔軟に対応出来るようになる。柔軟な対応とは、たんにズレを修正するのではなく、むしろそのズレを、作品をより発展させるために積極的に利用出来るようになるということ。(おそらく三つめがいちばん重要だ。)
しかしまた逆に言えば、自由になるということは、たんに上手くなるということでしかない、とも言える。自由になったからといって、作品がより良く(より面白く、より密度が濃く)なるとは限らない。それはまた別の話だったりもする。(本当に重要なのはおそらく、上手くなることによってでは歯が立たない何かなのだろう。)だが少なくとも、自由な感じで描けている作品は、それを観た人にもまた「自由な感じ」を与えるはずだということは、期待出来るのではないかと思うのだが。
(上手くなるとそれに飽きてしまう人もいる。そういう人は、常に新たな何かに「挑戦」して、その対象(課題)を「克服(征服)」することに歓びを感じるみたいだ。でも、そういう人は基本的に「芸術家」ではないと思う。勿論、芸術家ではないから「悪い」という非難では全くないのだが。それどころか、立派な人というのは、たいていそういう人なのだろう。)