2023/11/08

⚫︎『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』、七話まで見た。過去の描き方があまりに思わせぶり過ぎて、そして思わせぶりであるが故に紋切り型になってしまっていると感じてしまう。ただ、興味深いところがないわけではない。

幽霊としての「めんま」のあり方が、かなり変わっている。めんまは「じんたん」にしか見えない。だが、じんたんにとってめんまは、幽霊というより、物理的に実在するようにしか思えない。たとえば、めんまが無自覚に体をすり寄せてきて、じんたんがたまらずに射精してしまう(ようにしか見えない)場面がある。じんたんにとってめんまは実在する女性と何も変わらない(とはいえ、じんたんは当初、めんまを自らが作り出した妄想だと捉え、「思春期の性衝動が暴走している」みたいなことを言う)。

さらに、めんまは、キッチンに立ってパンケーキを作るし、(じんたんが食べるのと全く同じ、物理的に実在する)ラーメンやポッキーを食べる。めんまの作ったパンケーキは物理的に実在し、それをじんたん以外の人物も見ることができるし、食べることもできる。つまり、めんまは物理的な現実に介入することができる。しかし、にもかかわらず、じんたん以外の人物には「触れる」こともできない。ただ、めんまが「ぽっぽ」に抱きついた時に、ぽっぽは何かを感じてはいる様子だった。

(幽霊であるはずのめんまが風呂に入ったりさえする。)

とはいえ、このような特異な設定が作品上で何か意味があるようには思えず、単に、アニメとして成り立たせるためにご都合主義的にそうなっているとしか思えない。

重要なのは、めんまが成長しているという点の方だろう。多くのフィクションでは、幽霊は亡くなった時の姿、少なくともその年齢で現れる。しかしめんまは、他の登場人物たちが小学生から高校生に成長しているのと同じだけ成長した姿で現れる。だが一つ違うのは、他の登場人物たちが、小学生から高校生へと成長する間に何かしらの屈折を経ており、現状のあり方にその屈折が織り込まれているのに対して、めんまは全く屈折を経ずにそのまま大きくなったかのようで、着ている服も、小学生の時に着ていたもののサイズがそのまま大きくなったものを着ている。これはかなり不自然だが、この不自然さこそがこの作品の特異性となっている。

成長はしたが変わっていないめんまが、成長して変わってしまった登場人物たち、さらに成長を通じて変わってしまった彼らの関係に対して、反省とやり直しを求める否定的媒介として現れる。めんまが成長せずに、亡くなった時の姿で現れるのならば、それはフラッシュバックであり、過去への固着であり、めんまの存在は「過去を忘れるな(誤魔化すな)」というメッセージということになるが、成長しているので、彼女の存在が突きつける要求は、現在の組み直しであり、それによる、過去への固着からの解脱ということになるだろう。

成長したが変わっていないめんまを媒介とすることで、まずは、成長して変わってしまった人物たちが、しかし案外変わってはいないのだということが炙り出される。それは、現在のあり方の奥から、過去のキャラがふっと顔を出すという感じで、つまり変わっている(成長した)姿と変わっていない姿が多重的な重なっているということで、変わったこと(成長したこと)それ自体が否定されているのではない。次いで示されるのが、変わったはずの人物たちが、それでもなお、過去(めんまの死・めんまという存在)に強く拘束されているという事実だろう。

ここで問題とされているのは、思春期における過去(子供時代)との関係であり、それはつまり、性的なものに目覚めた後になってからの、性的なものに目覚める以前の時期との関係ということになる。たとえば作品のほぼ冒頭に置かれる、めんまに体を擦り付けられてじんたんが射精してしまうというような関係は、子供時代にはあり得なかった(この点についてめんまは無自覚であり、成長していない)。また、安城鳴子という登場人物は子供の頃に「あなる」と呼ばれていた。女性に「あなる」というあだ名をつけることは通常(悪意やからかい抜きには)考えにくいが、アナル=肛門であり、そこに性的な含意もあるという知識は子供にはないから問題なかった。しかし、高校生になるとそう呼ばれる(呼ばれた)ことに抵抗が生まれる。それらによって示されるのは、決して後戻りできない決定的な変化を経てしまっていることだろう。じんたんが口にする「思春期の性衝動」こそが、(多重化されて共存しているとはいえ)過去への遡行の不可能性を印づけている。

(ただ、じんたんは一話ではめんまを性的に意識しているが、二話以降ではその感じがまったくなくなる。だからこの作品において「性的なもの」による切断は、潜在的には作用しているが、表面的にそんなに強く出ているわけではない。)