●下北沢のトリウッドで『亀』(池田将)、二回目(http://homepage1.nifty.com/tollywood/2008/kame/kame.html)。二度目なので、だいたいの展開は知っているので、より細かいところまで観ることが出来て、一度目よりさらに面白く観られた。
それにしても、この映画の時間のあり様はとても不思議なものだ。このカットが、なぜここにあり、これだけの時間持続するのか。その根拠が、物語を語るためというところにあるのでも、映画のリズムをつくるためというところにあるのでもないようなのだ。それはおそらく、前もってある「この映画のイメージ」がそれを必要としたというより、それが撮影の時に、このような時間のなかで(このような時間として)起こったから、カメラがそれをそのような時間として記録した、だからそのような時間として映画にも組み込まれている、ということなのだろうと思う。このような人と、このような人と、このような人とが、このような場所で、このようなシチュエーションのなかで出会ったら、きっと何か面白い時間が成立するのではないか。この映画の演出というのは、そういうことなのではないかと思った。ある場面を構築するというより、いくつかの要素を組み合わせることで、そこに何かしらの充実した時間(それが実際に起こってみなければ、どんなものなのかは予想出来ない時間)を発生、成立させようと探ってゆくこと。そのため試行錯誤こそが演出であり、カメラは、そこで起るべき未知の出来事や時間を的確に捉えるために待機する、というのか。
おそらく誰が観ても、この映画の俳優たちの充実には驚くと思う。この映画は大学の卒業制作としてつくられたもので、いわゆる商業映画ではないから、出ている人たちも職業的な俳優ではない(一名だけ、俳優が出演しているそうなのだが)。だから出演者たちは基本的に、監督の個人的な知り合いということなのだろう。まず、これだけ多彩な知り合いがいるということが、(いわゆる「映画作家」としての能力以前に)この監督の才能の豊かな土壌を形成しているように思う。それは、日常生活においても、映画の制作や演出という次元においても、これだけ色々な人たちそれぞれを尊重しつつ「受け入れる」ことが出来るだけの大きさがあるということだろう。
これはまったくの推測でしかないのだが、この映画の構想は、こんな話が撮りたいとか、こんな形式の映画にしたいという以前に、この人と一緒に映画をつくりたい、この人がこんな役をやると面白いんじゃないか、この人とこの人とを、このような場面で出会わせたら、何か面白ことが起こるんじゃないか、ということが先にあったのではないだろうか。群像劇という形式がまずあって、そのためのパズルのピースとして人や出来事があるのではなく、まず「この人」がいて、その「この人」も、規制の俳優やキャラクター、通りのいいイメージとしての「この人」ではなく、どの程度の付き合いがあるのかはともかく、実際に監督自身が生きている生活圏の身近にいる「この人」で、そこからエピソードなり出来事なりが発想されていることが、この映画の「信用出来る感じ」を支えているのではないだろうか(今後、この監督やスタッフの人たちが、何かしらの形で映画の制作と経済的なこととの折り合いをつけざる得なくなるなかで、このような「信用出来る感じ」を維持し、持続させ、さらに発展させてゆくことには大きな困難があるとは思うが、それは困難ではあっても、決して不可能なことではないと思う)。
この映画では、最初のシーンを観た瞬間から、これは面白いに違いないと確信させるような確かな手触りがあり、そしてその手触りは、「信用出来る感じ」として最後までずっと持続するのだが、しかし、この映画はただ「信用出来る感じ」だけで出来ているのではないようにも思われる。いくつかの場面で、奇跡的というのはちょっとおおげさ過ぎるとしても、特別に幸運に何かが作用し、作家やスタッフやキャストたちの力量には還元されない、何か特別に充実した、驚くべき幸福な出来事が成立しているように感じられる。もちろん、それを準備し、それを支え、それを見逃すことなく受け入れ、それを作品として定着し得たのは、なにより作家の力量によるのだろうが、決してそれだけでは説明出来ない、特別に幸運な力が作用し、幸運な何かがこの作品には確かに刻まれているように感じられた。そして、そのような作品を観ることが出来たということが、観客にとっても何よりも幸運な出来事となるのだ。