●凝っているとかハマっているとかいうのではなく、きわめて表面的で無責任で薄っぺらな興味でしかないのだが、なんとなく占いが気になる。例えば、西洋占星術で根拠となり、「読まれる」べきテキストはホロスコープであり、それは、天動説時代の天空の惑星の進行を示すアルゴリズムで、それ自体として(古いものではあるが)科学的な根拠をもつ。それは、実際に天体の観測に基づいて導き出された体系であり、その体系は現実(観察)との(完全ではないが)一定の関係があることが条件とされている(とはいえ、体系とは現実そのものからは切り離され、それ自体としての自律性をもつのだが)。
それ自体として(古いが)科学的なものである「ある体系(あるいは統計)」が、しかし、本来それとはまったく別の事柄であるはずの、世の中の流れや個人の性質や運勢を示していると言う根拠はどこにもない。にも関わらず、人は、ある精密な体系があると、自動的にそこから何かを読み取ろうとしてしまう。ある自律した体系は、かならずその中に世界の秘密や法則を宿しており、それ(体系そのもの)とは別の何かを反映していると、どうしても感じてしまう。天体の運行と世の中の流れとの対応関係を保証する根拠はどこにもないが、おそらく、人が必然的にそこに対応関係を読み込んでしまうことが避けられない、ということには根拠がある。テキストを読むことは、世界そのものを読むことではないが、人は必然的にそれを混同する。というか、おそらく人は、世界そのものをも、テキストを読む(テキストから徴候を読み取る)ようにしてしか読むことが出来ないのだ。
これはまさに、言語と人間との関係そのものを示してもいるように思われる。言語はそれ自体として自律的な体系をもち、それ自体として自律した展開や発展をもつ。しかしそれが、言語の外にある現実を反映しているという保証はどこにもない。そこで、本来、(観察や実験による検証が常に要求されることで)言語の外にあるものを記述するためのものであるはずだった科学的な言語(言説)は、いつの間にかひっくり返って、その言説(論理)の体系そのものが、その外にある世界の体系(法則)をその内側に宿しているかのようなことになってゆく。世界の記述として、世界に従ってあるはずだった言語-記述の体系が、その関係が裏返り、世界が言語の体系に従って展開されるかのような役割を担わされてしまう。この転倒を批判することはたやすいが、人の思考が(感情が、生が)そのような裏返りのなかに閉じこめられてしまうことの必然性の外に出ることは困難だ。
だが、占いは体系そのものではないかのようだ。それは、常に体系からこぼれ落ちてしまう「ある現実(という余剰)」から受けた衝撃波を、それに解釈を加えることで再び体系の内部に戻してやる作業であるかのようにも感じられる。問題は、ある体系によってある徴候から未来の予想を導き出す(先読みをする)というだけでなく、常に未知の新たなものとしてこぼれ出る現実という余剰を、「読み」という行為によって、体系の内部にそのための場所をつくって、場所を与えてやる、といことにもあるように感じる。それによって人はある安定を得る、というか、起こってしまったことに対して、事後的にある「納得」を得る、ということが重要な役割のではないだろうか。そのために、占いによる「読み」は、(ある意味、場当たり的に)常に新たに創造されなければならない。
●ところで、占いが「私」に与えてくれる、「あなたはこういう人です」というメッセージは、だいたい八割がた当たっている。八割がた当たっているというのは、自分が自分に対して持っている自己イメージと、八割がた重なる、ということだ(そもそも、自分が自分に対してもつ自己イメージがどの程度正確なのかが怪しいのだが)。このことにはまったくうんざりさせられる。「そんなこと、あなたに言われなくても嫌と言うほど身にしみて分かっていますよ、じゃあ、だったらどうしろって言うんですか、どうすればいいというんですか」と言いたくなる。もし、その結果が自己イメージと大きくずれていて、腑に落ちないものであったとするならば、もしかしたら、自分が四十年以上も付き合ってきた自分の自己イメージが根本的に間違っているという可能性もあるということで、まったく新たなものとして自分が更新される(本当の私がどこかにいる !)可能性もあるという希望も見えて来る(自分探しが出来る !)のだが、そんなことはまずないので、「あーあ、どうせそうですよ、この私と一生つきあうしかないんでしょう、このなけなしの私でやってゆくしかないんでしょう」という気分になる(で、そのような自己イメージは、先取りされた自己として、あるフレームとして作用してしまったりもするのだが)。