●散歩をすることと、散歩の途中で撮った写真を後から見ることとは、まったく違う行為だなあと思う。写真から見てとれることは、散歩の途中に見たり感じたりしていることとはかなり違う。しかし、散歩中に撮った写真を後から見ることで、散歩している時の感じが思い出される(その時の感じが再駆動される)ということもある。まあそれは、写真からはいろいろなことが見えるということでもあるが。
では、散歩をすることと、散歩の途中に写真を撮ることとは、どのような関係にあるのだろうか。まず一つは、写真を撮ることによって、散歩の途中で「立ち止まる」きっかけとなるという意味がある。連続的で安定的な動きのなかにいる時、そこに意識的に区切りを入れるのは案外難しい。とはいえ、写真を撮るために立ち止まるということは実はあまりなくて、何かが気になってふと立ち止まったときに、その気になった何かにカメラ(というか携帯)を向けるという感じの方が多い気がする。むしろ、撮ってしまうと安心して、長く見ることをやめてしまうという傾向さえあるのではないか。とはいえ、ただ立ち止まるのと、立ち止まったあと、ちょっと撮っとこうかなという気持ちが起きて、携帯をポケットから取り出して、カメラモードにして、なんとなくフレームを探って、シャッターを切るという動作が加わるので(カメラモードは決してパッと作動するわけではないし)、一拍、二拍と留まる時間に遅れが出るということはある。撮っとこうかな、という気持ちが起動することで、散歩モードからの気持ちの変化が起こり、連続的なモードに軽い区切りが差し挟まれもする。
関係ないけど、最近は写真を携帯で撮るから、(スマートフォンではないので)デジカメよりもモニター画面がずっと小さくて、最低限の構図の確認くらいで、どんな風に撮れているのかその場では確認できない。しかもぼくは今、小型のネットブックしかパソコンを持っていないので、家に帰ってパソコンに取り込んでも、小っちゃい画面でしか見られないから、構図全体を見ようとすると画像が小さくなって、細かく見ようとすると構図が途切れてしまう。まともに見ようとすればネットカフェに行くしかなくて、そのような不自由さのなかで撮っていることが面白いとちょっと思っている。だからこの日記に添付される写真も、まともに見られないまま、半ばカンで適当に選ばれている。
ぼくにとって写真は、そのようなもろもろの状況や行為のなかにその一部分としてあるもので、独立した何かではないのかなあと思う。