フレーミングとは、物と物とを関係づけることだ。物と物、その距離、形態、色彩、表情、テクスチャー等を、フレームのなかに配置し、フレームによって再配置する。既にそこにある関係が、フレーミングによって配置し直される。あるいは、そこにある潜在的関係性の一つを、フレームが顕在化する。
しかし、写真に写るのは関係だけではない。光は、そこに漂い、充満し、反射し、反映し、濃度の違いとして分布している。それは、物たちのような距離-関係とは違うありかた(濃度-分布)としてある。カメラは既に充満し分布する光のなかにいるので、光とは距離を測ることが出来ない。それは既に、そこにそのようにしてあり、フレーミングによる再配置は、そこに影響を及ぼすことはできない。光はそのようにして既にあり(それは過剰であったり希少であったり、堅かったり柔らかかったり、まっすぐだったりゆれていたりする)、それがそれとして映る。
フレーミングによる関係づけ(配置、再配置)と、既に、いま、そこに、そのようにしてある光の両方が、写真には写る。
●デジカメがフィルムカメラと大きく違うのは、そこに(撮影者と撮影対象との)「距離」が写らないという感じではないか。しかしその距離の写らなさが、より一層フレームを意識化させるように思う。画質がフラットな感じになるので、距離-パースペクティブが弱まり、平面的な広がりとしてのフレームが強くでてくる。距離の写らなさが、視点の拘束性を弱める。既に写っているものとしてある「距離」を見るのでなく、(データのような)視覚性の塊としてある写真を「改めて見る(解釈する)」ことによって生じる、フレーム内での物と物との関係-配置の可変性、可塑性を高める感じ。それは画面から、「これしかない」というピタッと決まった感じを失わせ、漂うような視覚をつくりだすように感じる。それはまあ、良し悪しなんだけど、その距離のなさが、多分、今のぼくには面白いんじゃないかと思う。
●スナップショットというのはおそらく距離感の問題で、その時にしか生じないある距離、ある偶発性のなかで発見された新鮮な距離、を、その一回性と瞬時性のなかで捉えるということなのではないか。だとしたら、スナップはフィルムによって撮られるもので、デジカメでは難しくなる。デジカメだとどうしても、データの保存のようなニュアンスになる。でも、それを逆手にとれば、というか、そういう性格にもっともっと忠実になれば、面白くなるのではないか。
●晴れた空。今日撮った写真。