柴崎友香「春の庭」(「文學界」6月号)を読んだ。面白かった。最後の方の、姉と弟の場面が、しみじみとよかった。
●『寝ても覚めても』や『ドリーマーズ』などの「多重フレーム」物のまた新しい展開という感じだろうか。ある特定の人(視点)がいて、その人物が多重化された複数のフレーム間を移動するという感覚と、ある程度安定したフレームが存在していて、そのフレームのなかを複数の人(や物)が出入りするという感覚とが、両方、うまく重ねられている感じ。ここでフレームとは、主に空間の区切り(部屋、建物、土地)のことだが、ある特定の空間の区切りはまた、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像、へと分離し、また、重ね合される。つまり一つの特定の土地も複数のフレームに分離する。
●太郎は、大阪から東京へ移動し、西は、名古屋から東京、そして千葉へ、沼津(かつて沼津だった男)は、静岡から東京、そして北海道へ、実和子は、北海道から東京、そして福岡へ、太郎の姉は、名古屋から台湾へ行きそびれて東京へ、と移動し、そして「巳」さんはずっと東京で、それぞれの人物がその移動の過程の重なる場所=フレーム(東京・世田谷・ビューパレス サエキⅢと水色の家・この小説)によって関係づけられる。これがまず、もっとも基本的なフレームだろう。
●また、語りという点から見れば、視点こそがフレームであるとも言える。まず、太郎の視点(三人称一視点)というフレームから世界は記述され、居酒屋での会話を介して、西の視点(三人称一視点)がそこに追加される。そして最後に、「わたし(一人称)」という形で太郎の姉の視点が前面を覆うようにあらわれる。つまり、それ自体として複数のフレームをもつ「この世界」が、三つのフレームによって語られる、と言える。太郎と姉との対話の場面が素晴らしいのは、二つのフレームのズレと重なりとが描き出されているからだと思う。
そして、太郎が夜中に一人で水色の家に忍び込む最後の場面が、まるで姉の「わたし」によって語られているかのようにも読めるニュアンスで語られることによって、四つ目のフレームが現れるとも言える。このフレームでは、複数のフレーム(視点としての太郎と姉、そして一つの場における、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像)が、分離するのではなく、一瞬だけ溶け合って(というか、混同されてしまって)いるように感じられる。この四つ目のフレームの次元を出現させるために、それまでの過程があったとも言えると思う。
●この小説では、人だけでなく、「物」も交換によって頻繁に移動する。太郎が落とした会社の鍵は、沼津(かつて沼津だった男)が出張の土産に買ってきた「ままかり」と交換され、それはさらに「ドリップコーヒー」へと交換され、ごぼうパンへと交換される。西が友達の店から引き取ってきた「鳩時計」は、お礼として太郎の元へと移動され、さらに結婚祝いとして沼津(かつて沼津だった男)の元へ移動し、そのお礼として毛ガニやイクラが返され、それが西を通じて実和子の家へと持ち込まれ、そのお礼(というわけでもないが)として、太郎の家には大量のソファーと冷蔵庫がもたらされる。
(余談だが、「寝そべる」ことを好む太郎の部屋に、それを阻害するかのように多量のソファが水色の家から持ち込まれたことで、太郎の「寝そべり」が部屋=フレームから押し出され、故に、ラストで、太郎の「寝そべり」が水色の家へと移動した、とも言えて、つまりこの小説では、物や人だけでなく、行為=仕草までがフレーム間を移動する。)
●複数のフレームがあり(部屋・建物・土地、そしてそのそれぞれの、現実と虚構、現在と過去、直接知覚とメディアを介した知覚、知覚と想像という様相)、そのフレームの間を移動する多数の要素たちがある(人・物・仕草)。そして人は自らの視点をもち、それ自身としても一つのフレームである(多重なフレーム同士をフレーミングするフレーム、または、自らも配置する、配置されるもの)。フレームはそれ自身では空の器であり、様々に要素を受け入れたり排出したりするものだ。とはいえ、フレームそれ自身も、一定の性格やクセをもち、時間のなかで変化する(建物は取り壊され、人は歳を取り、死ぬこともある)。
●「春の庭」という写真集は一冊の本であるが、それを見る人ごとに、異なる「水色の家」を、「牛島タロー」「馬村かいこ」を生み出し、分岐させる。しかしその、その、様々な人にとってのそれぞれの「春の庭」像は、それが同じ一冊の本からもたらされたことによってふたたび束ねられ、互いに関係し合ったり、比較されたり、時には混ざり合ったりもするだろう。
「馬村かいこ」もまた、写真集に写っている馬村かいこ、イラスト集を描いた馬村かいこ、ウェブ上のヨガ教室をしている沢田明日香、等のフレーム(メディア)ごとに分岐し、しかしそれらはどれも「馬村かいこ(人・フレーム)」であることによって関係づけられ、それによって、その差異が発見される。
●同じ人物が複数のフレームの一部分へと分岐する一方、異なる人物が一つのフレームの内に括られることもある。太郎にとって「巳さん」は、まず母との比較によってあらわれ、後に、父と同じ年齢であることから父と重ねられる。だが「巳さん」は、父の分身ではなく、父の歴史を感じさせる人物であると言えよう。一方、西は、太郎にとっては明確に姉の影であるようにみえる。しかしむしろ、この小説というフレームからみるならば、姉の方こそが西の影であり、終盤の(一人称)わたし=姉の出現は、この小説が完全に西の管理下におかれたということの表れであり、西の欲望こそがこの小説の運動を支配しているのだという証しのようにも思われる。
●牛島―馬村夫婦(このカップルは、干支の午が「牛」と似ていることからきているのだろう)と、実和子一家は、少しも似ていない。しかし、にもかかわらず、同じ「水色の家」というフレームに括られることによって、同一カテゴリーとみなされる。つまり「絵に描いた」ような幸せそうな生活を送る人たちであり、それは太郎や「巳さん」や西とは「別の世界」に位置する。それは経済格差とか、そういう意味ではない。西にとって、目の前にある現実の水色の家は、あくまで写真集「春の庭」を通して現れたものであり、それをはじめて見た時に(そして繰り返し見るたびに)自分のなかに生じたある「良い感覚」とつながっている。それは写真集+水色の家という多重化されたフレームである。西の「黄緑色の浴室」への狂気じみた執着は、現実の場所でありながら現実にはあり得ないかもしれない「何かよいもの」への超越的な通路であるような場所だからだろう。
太郎は、そのような西の欲望を尊重し、その実現に協力しなければならない責務のようなものを感じながらも、欲望そのもの(良い何かに繋がるもの)を共有することはない。この二人のフレームのズレは、姉と弟のズレとして描きだされていたものと似ている。太郎にとっても水色の家は現実と虚構とを重ね合わせたフレームであり、「良い何か」には違いないが、その「良さ」はテレビドラマ程度ものであろう。太郎は、≪特撮ヒーローものは好きだったが、どちらかというと変な部分をみつけて笑うような子供だった≫。とはいえ、それが貴重な、なくてはならない、良いものであることにかわりはないだろう。
●この小説が、西の狂気じみた欲望をたしなめるかのような太郎の行為で終わることは味わい深い(父の遺骨を粉にしたすり鉢を水色の家の庭に埋めたのは、父の死がもはや虚構の側に近い位置に移行したということなのだろうか)。しかもそれは、わたし(姉=西)の空想のなかで展開されているとも読めるようなニュアンスで書かれている。
この小説を駆動し、支えている欲望が西の側にあるとしても、それが主に太郎の視点から描かれているということは、そこに「託された何か」が太郎へと移行されているということなのだろう。ラストには、太郎でも西でも姉でもなく、現実でも虚構でもないフレームが現れているように思われた。
●この小説における、「多重なフレーム同士をフレーミングするフレーム、または、自らも配置する、配置されるもの」=人というのは、例えば次のようなシステムのようなものだと認識されているように思った。
≪一時、高校生くらいのころは、生物の進化には意思が関係していて、こうなったらいいのにという願望がある程度反映されるのだと思っていたが、生物学や進化論ではそれは正しくないらしいことも知っているし、今は太郎自身も、こういった奇妙な生物の生態を知る度に、なんだかわからないがそういう仕組みができてしまったから続けている、延々と続けている、ただそれだけではないかと考えるようになった。
なぜこんな面倒なことと思いつつ、違う種類の葉も実も食べられたらいいのにと思いつつ、そうなる仕組みになっていることを繰り返すしかない。繰り返せなくなったら、少なくとも今の形の自分たちはいなくなる。≫