●馬喰町のギャラリーαMで、浅見貴子展。
http://www.musabi.ac.jp/gallery/2012-4.html
そして、企画者の保坂健二郎と浅見貴子の対談。対談はUST録画あり。
http://www.ustream.tv/channel/gallery-%CE%B1m-%E7%B5%B5%E7%94%BB-%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B6%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86-vol-4-%E6%B5%85%E8%A6%8B%E8%B2%B4%E5%AD%90x%E4%BF%9D%E5%9D%82%E5%81%A5%E4%BA%8C%E6%9C%97%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF
●浅見さんの話がすごいのは、もっともらしいことを何も言わないというか、ひたすらベタで具体的な話しかしないところだと思った。メタ的な把握に向かおうとする話の流れを、その都度、具体性の方へと引き戻してゆく。話を、なんとなく分かった気にさせるようなところに決して着地させない(あるいは、謎めいた何かを匂わすようなことをしない)。例えば、作品の性質としてのフレームの融通性みたいな話をしている時に、いやあ、キワとかけっこう意識して狙ってやってるんですけど、ここの部分とか…、みたいな、具体的な技術的配慮の話に引き落とす。だから話は、作品の全体性(全体を一挙に把握させるような説明)へとは向かわず、いつも、この作品のここの部分はこんな感じで…、というような具体的な場面への言及になる。だから話を聞く側も、それで分かった気になることなく、再び、三度、作品を改めて観直すことへと導かれる。
自分の作品だから、どうやって作ったのかはよく知っているし、つくっている時に感じていることもよく知っているからいくらでも説明するけど(実際、とても饒舌だ)、出来上った作品がどういうものであるのかについては説明のしようがない、という感じ。例えば、最後の方で話された、筆を紙の上でころがす感じは受験時代の石膏デッサンに近いことを最近発見したという話は、具体的な話としてとても面白いのだが、それは、描いている時の浅見さんの感覚は説明しても作品そのものはまったく説明しない(あるいは、作品を根拠づけ、正当化しようとする言説にはまったくなっていない)。「石膏デッサンに近いということを発見した」、だから「この○○は××ということなんじゃないか」という風には話が続かない。あくまで作る人としての内側からの目線に留まり、外的な、意味付与的な解釈を自分の作品について行わない。自分を、作品の上位の位置に立たせない。徹底したメタレベルの不在というか。このことと、浅見さんの作品のゆるがないような強さとは関係があるように感じた。
おそらく、対談相手の保坂健二郎さんは、なんとかして浅見さんからアーティストっぽい、それらしい話やもっともらしい話を引き出そうとして、いろいろな方向からつっついてみたりしていたのじゃないかと思う。しかし結局、浅見さんはそれにはのっからず、最後まで一貫してベタベタに具体的な話のみをしつづけていたように思う。そのことが結果として、浅見さんという作家の頑固と言っていいであろう強さを目に見える形で引き出したのだから、この対談はとてもうまくいっていたと言っていいんじゃないかと思った。
●浅見さんの新作については、レイヤーの違いが以前よりもくっきりと見えるようになっていて、それによって、各レイヤー間の振幅がよりダイレクトに感じられるようになっているように思った。
浅見さんの作品のキモはたんに深さというだけでなくて振幅だとぼくには感じられる。その振幅も、画面の手前と奥という前後のレイヤーの振幅だけでなく、画面全体を渦巻のように循環する振幅もある。浅見さんは「ブラウン運動」と言っていたけど、一個一個の点がそれぞれに異なる震えを内包し、同時に、異なる震えを内包した複数の点たちが一つのレイヤーとして連結されてもいる。だから一つのレイヤーがそれ自身で既に震えているし、震えを拡散的に伝播させている。そして複数のレイヤーが重なることでその振幅はさらに複雑にうねるようになる。点と点の間をはしる線は、複数のレイヤーをまたいで、点の震えを伝播を促し、また、時に抑制もするように感じられる。複数の振幅の波が相互干渉してさらに複雑な振幅を生む。
浅見さんの作品では、フレームのなかに点や線の配置があるというより、まず震えがあり、震えの伝播(リズム)があり、レイヤーがあり、レイヤー間の振幅の波がありうねりがあって、フレームは、それらの震えやうねりを内包し伝播させ得るだけの「容量」としてあるように感じられる。一個一個の点や線は、フレームとの関係としてあるというより、身体と筆-墨-紙の表面という関係のなかにある感じ。
フレームは仕切られた空間であるより、(プールのなかにどれくらいの水があるのか、みたいな感じの)振幅の許容量である感じ。プールの中の水の量は、プールというフレームに必ずしも拘束されない(フレームと必ずしも一致する必要はない)。プールの容積より大きい場合もあるし、小さい場合もある、というように(フレームの融通性とかも、多分そこからくると思う)。そして、その許容量が飽和寸前まで描きこまれる場合もあれば、許容量に余裕を残して終わる場合もある。
もちろん、フレーム内での点や線の偏りや配分や粗密は重要であるが、それはグラフィックな平面上の配置ではなくて、ある(それ自体が可変的な)容量のなかの粗密の偏りとしてあるのだと思う。目に見えるフレームのなかで描いているというより、目には見えない容量のなかで描いている感じではないか。