ガス・ヴァン・サント『ジェリー』

ガス・ヴァン・サント『ジェリー』をDVDで。『エレファント』にはあまり良い印象を持てなかったのだが、これは面白かった。大自然と言うよりも、シミュレーショニスムの画家が描いた風景のような、書き割りのようでありながら、取り留めなく広がっている抽象的な空間のなかで、誰でもない誰かとしての、二人の若い男性が、ただひたすら彷徨する。(この、薄っぺらで取りつく島もない空間での彷徨は、例えば『パリ・テキサス』でトラヴィスが彷徨っている、「西部劇的な記憶」にあらかじめ染められているような空間での彷徨とは根本的に異なる。空間が異なるということは、自ずと、そこを彷徨する人物のあり様も異なるということだ。この映画の人物には、はじめから「物語」を担う能力が剥奪されている。)この映画では、開始間もなく登場する、ハイウェイ脇の数頭の馬と、擦れ違う三人の親子連れを除いて、二人の主人公以外は、人間だけでなく「生物」が一切出てこない。いきなり、理由も告げられず、あらゆる人間的なものから切り離された空間に放り出された二人の男を、観客は延々と観続けることになる。とめどなく広がる空間は、二人の人間から様々な「人間的文脈」を次第に剥奪してゆき(彼らが、まず最初に奪われるのは「方向」なのだが)、ただ、二つの身体の、足取り、息づかい、感情の起伏、(二つの身体間の)同調と反発、そして徐々に積み重なる疲労の感触、のみを浮き上がらせ、そして、二人のまわりに流れる「時間」を、まるでそれが(物語に染められていない)時間の裸の表情であるかのようなものとして浮き上がらせる。(例えば、相方を探すために巨大な岩に登って降りられなくなった男と、岩の下のもう一人の男が、なすすべもなくやりすごす時の、あの「時間」のあり様。)しかしそれでも、映画の序盤にあらわれる風景は、植物が生え、ゴツゴツした岩が行く手を阻み、高い山や起伏があり、つまり、人間が自分の身体との関係において、何かしらの取っ掛かりを持てるような表情を有してはいる。それに、彼らは二人組であり、常に「自分の似姿」としての相方を意識し、目が捉えているし、話しかけたり、話しかけられたりする。それによって、あらゆる「人間的文脈」が剥奪されたとしても、かろうじて「自らの身体」を、一つのまとまりのあるものとして束ね、維持できるのだ。もし、たった一人で、人間的な文脈の気配もなく、空間的に取りつく島もない平坦な風景の広がりのなかに放置されれば、私という意識だけでなく、身体的なまとまりさえも簡単に崩壊し、周りの風景のなかに拡散していってしまうだろう。(そこではおそらく、時間の裸の表情どころか、「時間」という秩序そのものが崩壊するだろう。二人の横顔をアップで捉え、ただ地面を踏みしめる足音だけを延々と響かせる長いショットにおいて、人物が足音の律動のなかに拡散してしまわないのは、彼らが「二人」でいるためだろう。)
映画が終盤に近づくにしたがって、土地はどんどん平坦になり、風景のとりとめのなさは増し、ほとんど純粋に抽象的な広がりへと近づいてゆく。飢えや乾き、疲労の蓄積とともに、空間の「捉えどころ」の消失までが重なり、彼ら二人組の「身体」も、その「身体そのもの(の律動や拍動)」としての現れを希薄にしてゆく。何処までも同じような白い土が広がる平坦な広がりのなかを、重い足取りで進んでゆく二人を前後の位置で捉えた長いショットになると、もう、二人のどちらがどちらなのかもよく分からないし、常に、相方の存在を確認することで自らの身体的まとまりを得ていた「私」は、その相方が幻のように見えはじめ、あるいは、今見えているのが相方なのか自分の姿なのかも分からなくなってくると、自らの身体的存在そのものが怪しくなってくるだろう。おそらくここにあるのは、自他の区別も、空間だけではなく時間の進行する「方向」までも見失われた、(そして身体からも切り離されて宙に浮いた)「重い足取り」や「疲労」そのもののみなのではないだろうか。この映画の面白さは、そのような状態の変化を、物語としてではなく、人物を取り巻く風景の変化によって、その、空間と身体との関係によって(というか、関係の出来なさによって)、描き出しているところにあると思える。