武蔵野美術大学「見ること/作ることの持続・後期モダニズムの美術」

●昨日のことだけど、武蔵野美術大学の美術史料図書館展示室でやっている、「見ること/作ることの持続・後期モダニズムの美術」を観に行った。ムサビは、受験したことがないので行くのがはじめてで、昼間の用事で予想よりも遅い時間になってしまい、多分、鷹の台の駅からタクシーで行く方が、国分寺からバスかタクシーに乗るよりも早いだろうという見当をつけたのだが、鷹の台の駅の近くにはタクシーなど影も形も見当たらなくて、案内状には徒歩二十分と書いてある道のりを、昼間の用事に必要だった重たい荷物を肩掛け鞄と手提げ鞄に持ちつつ、ほぼ小走りで、薄明るいじめじめと蒸し暑い夕方の道を、マジ失敗した、マジ信じらんねー、とブツブツ独り言を呟きつつ、行くはめになったのだった。で、ムサビに着いたとたんに体温が上昇し、汗が噴き出し、真っ赤な顔で汗も拭わぬまま、美術史料図書館へ向かうと、中は真っ暗で、扉には鍵がかかっていた。確かに、通常の展示時間は過ぎていたのだが、オープニングパーティーのある日で、パーティーは午後八時までと書かれていたので、その時間までは観られると思い込んでいたが(着いたのは午後七時ちょっと過ぎ)、パーティーは展示とは別の会場でやるということを考えれば、このようなことも当然想定出来たはずなのだった。マジ失敗した、マジ信じらんねー、一体何しにここまで来たんだ、と呟きつつ、友人が来ているはずのパーティーの会場の方へ足を運ぶ途中、パーティーを抜け出して一人でコーヒーを飲んでいる友人に出くわした。「図書館はもう閉まってて、展示が観られない」、「えっ、マジで」、みたいなやり取りをして、仕方がないから会場でビールを何杯か飲んで、一緒に帰ろう、という話をしつつ会場へ。会場の入り口のところで出品作家の一人の吉川さんに会って、もう展示は観られないんですよね、というような話をしたら、他にも観られなかった人がいるから、と言って、主催者の側の人と掛け合ってくれて、結果、三十分だけ展示場を開けてもらえることになった。主催している方々が柔軟に対応して下さったおかげで、運良く展示をみることができた。ありがとうございます(というか、申し訳ありませんでした)。
●展示を観てまず思ったのは、(これは企画をした藤枝晃雄の意図とは全く反することだろうけど)「世代」って決定的にあるなあ、ということだった。展示されている作家の作品で、依田寿久(1940年生まれ)、依田順子(1943年生まれ)、中村功(1948年生まれ)、根岸芳郎(1951年生まれ)の作品と、加藤勇(1962年生まれ)、吉川民仁(1965年生まれ)、岸本吉弘(1968年生まれ)の作品との間に、断層のようなものがはしっていると感じられた。展覧会全体を通して、はっきりと批評家としての藤枝氏の「目(質的な判断、趣味)」が貫かれているのがよく分かるのだが、だからこそ、そこにある、ある微妙だが決定的とも思える違いが際立ってみえるように思えたのだ。
藤枝氏は、展覧会の図録の序文でも(藤枝氏の批評の一つの鍵である)「構成的抽象(造形)」と「非構成的抽象(反造形)」との差異について語っている。《前者は、色と形の関係による構成と統一を求める。(略)予定調和的に制作される場合は合理性という語が適用できるかもしれないが、本来的には精神性が終局的な目標となる。(略)その目標への努力はその後もずっと継続する。この継続のうちに後者は、色、形、関係を依然として有しているが、それを不問にする場面が現れる。ここで造形と言う語は、不適当である。絵画の枠はあっても、その全体的な存在様態が希薄になる。(略)絵画のヴィジョンは、見えてくる諸部分によって与えられ、芽生えさせられるのである。》ここで言われている「構成的抽象」と「非構成的抽象」とが、単純な対立概念ではないことがわかるだろう。「非構成的抽象」は、「構成的抽象」の作品がつくられる努力の継続のなかから、その極点においてふっと垣間みられるように実現する。ぶっちゃけて言えば、ここで藤枝氏が理想化して言ってるのは、キュービズム的な空間とシュールレアリスム的な手法の折衷としてはじまった抽象表現主義が、それ自身の発展のなかで、みずからの基盤となったものを超えて、(オールオーバーという言い方でいうとあまりに単純化されてしまうのだが)ポロックやルイスやニューマンのような作品を産み出した過程のことなのだ。彼らの作品においては、「一つの全体」としてのフレームのなかでの、色や形の配置(意味の濃淡)によってなにごとかが表現されるのではなく、あらゆる部分が(ほぼ)同等の意味(強さ)をもち、観者がたまたま目にした(注目した)ある「部分」がそのまま「全体」と同等の表現(としての効果)をもつ。(つまり、部分と全体という静態的な主従関係、階層秩序が成立しない。)しかし、それは、《絵画のあり様が内側から崩壊する局面に向かうことを予兆して》もいる、つまり、「反造形」をリテラルに徹底して追求してしまうと、それは絵画ではなく「たんなる物体」になってしまうというわけだ。抽象表現主義の優れた作品は、このような「造形」と「反造形」との間のギリギリの緊張関係を(その間を行き来する、抜き差し、や、やりとり、や、振動、を)、そのリアリティの「核」とすることで成り立っている、と言えよう。そして、藤枝氏が評価する作品の多くもまた、この地点を、その作品成立の「核」としてもつものであろう。
ここで、さきほど書いた世代間の断絶が浮上する。出品作家のうち年長の世代に属する人たちの作品は、藤枝氏の批評的な言説と足並みを揃えるように、割合きれいに重なるような地点でつくられており、つまりそれは抽象現主義的な磁力の圏内の作品として理解してほぼ間違いはないだろう。しかし、比較的若い方の作家たちの作品は、そのような言説と多分に重なり合いながらも(そのような問題意識を確かに「共有」しながらも)、ただそれだけで説明し切ってしまうことが困難である余剰が含まれているように思える。言い換えれば、もう、そこだけをリアリティの「頼り」としたのでは、作品はつくれない、と(作品自身が)言っているように見えるのだ。もう、それだけでは「足りない」のだ、と。そこには(藤枝的観点から観れば)「不純な(危うい)要素」がより多く含まれており、あるいはその「不純」である要素によってこそ、リアリティが確保されているのではないかとさえ、見える。一見、似たような「藤枝趣味」によって貫かれたような作品も、しかしその「リアリティ」の足場が置かれている場所には、世代間でかなりのズレがみられるのではないだろうか。そしてそのようなズレに対して、藤枝氏がどのように思っているのか、は、図録に納められた序文からだけでは、よく分からない。
ぼくはここで、「ジジイの価値観はもう古い」というような乱暴で単純で思い上がったことを言いたいのではない。そうではなくて、誰でもが(若者だろうが年寄りだろうが同じように)「世代」や「時代」に強く拘束されていて、一見それを超えた普遍性を問題としているようなフォーマリスム的な作品や言説であっても、そのような限定性(ナマモノ性)から逃れらるのは困難なことなのだなあ、と言う事なのだ。むしろ、「新しさ(目新しさ)」をことさら問題にしないような傾向の作品だからこそ、「世代(や時代)」というものによる限定や拘束の「不可避性」を、より明確に浮かび上がらせることが出来ているのだと思う。同時代には、ドキドキするような生々しさで迫ってきた作品が、或る程度時間を経ると、作品としての生々しさよりも、それが作られた「時代」の雰囲気の方を強く感じさせてしまったりするのだ。しかしそれでも、「良い作品」の「良さ」は、そのような世代や時代の拘束を超えて、ある、ドキドキするような生々しさを保持しつづけ、世代の異なる者に対してもそれを波及させつづけるのだということは、信じたい。今回展示されていた作品のなかでは、中村功によって1987年に描かれた「意勢」という作品が、そのような作品であるように、ぼくには思えた。二十年近く前に描かれたこの作品は、二十年前という時代や、中村功という画家が属している世代や文脈を超えて、それが展示されている現在のこの場所で、ドキドキするような感覚を確かに発しているように思えたのだった。