●ビルの二階にある喫茶店の窓際の席で本を読んでいて、ふっと本から目を外して、窓の外の、駅前と大通りとを結ぶ細い通りを見下ろすと、道幅いっぱいに窮屈そうにバスが通り抜けるところで、バスの屋根の上が見えた。側面や窓ガラスはピカピカに磨き上げられているバスも、屋根の上は土ぼこりがかたまってこびりついているような汚れ方をしていた。ああ、見えていないところは、やっぱ無防備なんだなあ、と思った。(より正確には、無防備という概念が、バスの屋根の汚れから、直接的に感じられた。)
この喫茶店にはしょっちゅう来るし、空いている時はいつも窓際の席について、その下の通りを歩く人をぼんやりと見ていたりするのに、自分が下の通りを歩いている時は、喫茶店の客からの視線を意識することがほとんどないということが、不思議なことのように思えた。しばしば、この喫茶店の窓を見上げもするのに。
ここで、ひとつめの段落と、ふたつめの段落とを繋いでいるものは何なのか。ふと目にしたバスの屋根の汚れから感じられた無防備という感覚が、ぼく自身が、この席に座っている客の視線に対して無防備にその下を歩いているのだろうという認識へと展開している。ここでほくは、ふと目にしてしまったバスの屋根の汚れを、見てはいけないもの、見たくないものを見てしまったとか、何かの秘密を目にしてしまったという感覚で見ているのではない。むしろこの無防備さを、ある種の「健康」のようなものとして感じている。目の届かないところがあるということを、あるいは、目が届かないまま放置されている場所があるということを、この世界と人間との関係の「健康な側面」と感じているようだ。
だから、自分が、この席に座っている客の視線から無防備に、その下の道を歩いているのだろうということを、ぼくはことさら恥ずかしいとか感じているわけではない。ぼくの無防備な歩行は、ぼく自身に属するものではなく、世界の側に属する。その姿に、ぼくは責任を持たなくてよい。それを、バスの屋根の汚れが教えてくれているように感じたのではないだろうか。