●『量子力学は世界を記述できるか』のつづきを読んでゆくと、昨日書いたことはけっこう的外れっぽいかもしれない。でも、それはそれでよい。というか、むしろその方が面白い。
●最近意識的に、本を最後まで読まないうちに、途中でその感想を書くということをする。これは「日記」であって、この場で「ちゃんとした書評」みたいなことをやっても面白くないから。一通り、最後までちゃんと読むと、とりあえずはその本の全体像のようなものや「おとしどころ」がみえてきて、途中でいろいろ思う、「その本に対する評価」としては適切ではないかもしれない「いろいろな考え」は抑圧されて消えてしまう。
だからそれは、まだ結論の出ていない途中の段階で、つまり、もしかすると的外れであるかもしれないという状態で書き留めておかないと、なくなってしまうかもしれない。もちろん、書かれたことを正確に理解するということが重要なのは言うまでもないが、とはいえ、本には著者の言いたいことや、論理の道筋だけが書かれているわけではなく、途中の様々な紆余曲折や流れの乱れ、揺れや矛盾、あるいは、必ずしもその文脈でのみ意味を持つというわけではない具体例などが書かれている。そしてそれを読みながら、その都度いろいろなことを勝手に思いついたり、感じたりする。理論の道筋やそれがたどりつく結論とは別のところで、そういうものが読む人を動かす。
●的外れや勘違いや間違いを抑圧してはいけないと思う。そういうものこそが、意識されない潜在的な場所で「仕事(試行錯誤)」をしている。正しさや結論はそれを抑圧して、いわば「ざっくりとまとめて」しまう。配置図や見取り図をつくってしまう。しかし、「それ」に仕事をさせるためには、「まとめ」は障害となる。
もちろん、その「間違い」をそのまま、対象に対する評価としてしまってはいけないのだけど。間違えは正さなくてもそのままでよいということではない。しかし、間違えることが出来るということ、あるいは間違えている(かもしれない)時間のなかにいる、ということの創造性をバカにしてはいけない。いやむしろ、間違えること(結論から遡行して事後的に与えられる「正しい道筋」の外側で起こったこと)だけが、何かを創造すると言えるのではないか。
●真面目にちゃんと勉強しようとする人に、このことをわかってもらうのはけっこう難しい。
西田幾多郎は本を最後まで読まなかったという。ラカンは話の途中で唐突にセッションを終わらせるという。それが思考を動かし、思考に仕事をさせる。決着されない時間というのは、「疑問を投げかける」とか「考えさせられる」ということとはまったく違う。「疑問を投げかける」というのは、「疑問を投げかけて終わり」という決着のさせ方の一種でしかない。それは思考の意識的な次元しか動かさない。そもそも疑問が成立していない(かもしれない)、考えるために十分な手がかりが揃っていない(かもしれない)、という時にだけ、「それ」が仕事をはじめるのだと思う。