●昨日の続き。二つの抽象性、イメージを上へと越えてゆこうとするメタ・イメージとしての抽象性(超越性)と、イメージの下に潜り込むプレ・イメージとしての抽象性(潜在性)について。これらは真逆のようでいて、例えば一つの式「2X=Y」から生まれる二つの効果であるとも言えて、どちらも同じ「抽象化」によって可能になるものなのだとも言えると思う。
●例えば、20世紀の西洋におけるモダニズムの絵画を、「絵画というメディウムが、自身の純粋化を通して自己実現へと向かおうとする」運動であるとするグリーンバーグ的な、メディウムスペシフィック的な説明を仮に受け入れるとすれば、それは明らかにメタ・イメージとしての抽象性を志向しているということになろう(勿論これはざっくりと単純化した時の話で、個々にみていけばそんな簡単なことではないが)。しかし、まさにその裏返しであるような、シュルレアリスムという運動も西洋の「モダン」を考える時にはずせない。シュルレアリスムは緩んだ文脈(現実性の後退)のなかでの、弱く、雑多なイメージの湧出と繋がり(再編成)であり、その運動は固有のジャンル(メディウム)に拘束されず、それを越えてひろがってゆく。これはあきらかに、プレ・イメージとしての抽象性によって可能になる。メディウム=イメージであるかのような純粋化への指向(モダニズム)と、イメージの湧出と自由な動きによってメディウムが溶解してしまうかのような混合への指向(シュルレアリスム)。二つの異なる抽象性による運動が、同じ「西洋の近代」においてきわめて近い位置で相次いで生まれている。そしてそれは、おそらくどちらも同じ「何か(近代)」によって可能になったものなのだと考えられる。
●その証拠であるかのように、アメリカ型フォーマリスム絵画(抽象表現主義)では(フォーマリスムと表現主義という正反対であるかのような概念で「同じ対象」が名指されていることが示す通り)、この両者の不可分の絡み合いの様が分かり易くみられる。初期に、稚拙なシュルレアリスム風の作品を制作していたニューマンが、後にメタ・イメージの極北のような作品を実現する。あるいは、ポロックの作品のモダニズム的な意味での「形式性の飛躍」が、シュルレアリスムの作品や技法に媒介されて実現しているのは明らかだ(短い晩年には、両者を接合しようと模索している)。さらに、ミロやゴーキーといった、半モダニズム、半シュルレアリスムの折衷的といえる画家の存在に、多くの者が影響を受けている。フランケンサーラーのいくつかの作品は、両者を、折衷的とは別の、新たな次元で結びつけている。
●だが、おそらくこの「抽象化」は、西洋近代に特有なものではない。モダンにはモダンのメタ・イメージ(超越性)とプレ・イメージ(潜在性)の分離があるように、プレ・モダンにはプレ・モダンの、メタ・イメージとプレ・イメージへの分離があるはず。よく知らないから自信はもてないけど、例えば古代ギリシャ。ギリシャでは、一方で数学や彫刻、建築といった、秩序だって均整のとれた文化が生まれたが、もう一方で神話という、猥雑でとりとめないとも言える文化も生まれた。そしてこれらは、「ギリシャ」という同じ抽象化(知性)のなかで起こる二つの効果(成果)なのだとも考えられる。
●つまり、「メタ・イメージ(超越性)」が、西欧的で、モダンであり、未来的、科学的、革新的であり、象徴的で、理性的、父性的で、ハードであって、「プレ・イメージ(潜在性)」が、東洋的で、プレ・モダンで、退行的、古代的、呪術的、であり、想像的で、感性的、母性的で、ソフトであるという区別が、そもそも間違っていたのだと考えた方が、いろいろなことが上手く考えられると思う。これらは切り離すことのできない「同じものの二つの効果」なのだ、と。両者はどちらも「抽象化」によって可能になったものの裏表で、重要なのはその中間にある分離以前の「抽象化」のあり様なのだ。そしてその「抽象化の能力」は、形をかえながらも、人類がはじめ(十数万年前)からずっと変わらず持ち続けているものなのだ、と。最近、同じようなことばかりを書いている気がするけど、ここがしっかり確信できるようになれば、いろいろ違ってみえてくるはずだと思う。