●八王子は盆地なので、例年、冬は都心より二、三度気温が低く、夏は二、三度高い。しかし今年に限っては、都心の方が蒸し暑いように感じる。八月からこっちは、週に一度、新宿のツタヤにDVDを返しに行く以外、ほとんど八王子を出なかったので、そのことをさらにはっきりと感じる。今年の夏は八王子ではあまり暑いと感じたことがない。しかし、八王子は暑くなくても、中央線に乗って新宿で降りるときまって、湿った生暖かい空気にべたっと包まれるのを感じた。八王子では、こんなには蒸していなかったと思うのだ。こんなことは、長い八王子生活のなかでも今年がはじめてだ。今日も、八王子では、半袖でも大丈夫だけど長袖でもOKな陽気で、それで長袖のシャツを着て出たのだが、新宿で降りるとじとっとして、すぐに汗でシャツが肌に張り付く。
八王子から出なかったのは出かけたくなかったのではなく、出かけるだけのお金がなかったからで、せいぜい、一日に二、三件の喫茶店をはしごして一番安いコーヒーを注文するくらいしか使えるお金がない(六月と七月に書いた三つの長めの原稿のうち、一つしか雑誌に載っていない!)。勿論、店で食事を注文するようなお金もないから、出かける前に御飯を炊いていっぱい食べて、あとは夜遅くに部屋に戻るまで我慢する。そんな夏だった。とはいえ、出かけられないおかげで、ゆっくり本を読む時間があったのはとてもよかったのだが。
新宿に向かう中央線のなかでいつも、今日は絶対、DVDを返すだけにして、新しく借りてくるのはやめようと心に誓うのだが、結局、ツタヤの棚を眺めているうちになにかしら借りたくなってしまい(八王子にも新宿くらいの規模のツタヤがあれば、何も、今日これを借りることもないだろう、と思えるのに!)、何本も借りてしまって、そうするとまた次の週も返しに行かなければならなくなる。そしてさらに、新宿へと向かう中央線のなかでは、今日は絶対、ツタヤにだけ寄ってまっすぐ帰るのだ、絶対に紀伊国屋とかジュンク堂などに寄ってはならない、とも誓うのだが、いざ新宿に着くとどうしても吸い寄せられてしまい、結果、本をたくさん買ってしまうのだ(八王子にももっと規模の大きく品揃えのよい本屋があれば、何も、今日ここで買うこともない、という余裕も生まれるのに!)。そして、帰りの下り電車のなかで、重くなった荷物と、小銭だけになったポケットの中身を思い、またやってしまったと思うのだった。そして、今日もそうだった。
ホン・サンスの映画をDVDで二本観たのだが、なぜ、ホン・サンスの登場人物はあんなに酒ばかり飲んでいるのかと思うくらい、酒を飲む場面が多い。というか、そもそも、ホン・サンスの映画の登場人物は、映画のなかの時間のほとんどを、酒を飲むか、セックスするか、セックスしようとしているか、しかしていないという印象なのだ。今まで二本しか観てないけど、ほんとにお前らそこにしか関心ないだろう、という感じなのだった。というか、映画作品そのものが「そこ」しか問題にしていない。『秘花』には映画監督が出てきて、この監督は、撮影所の人間関係的にも、作品的にも行き詰まっているようなのだが、しかしこの映画では、作品制作の困難とか、撮影所の労働の問題とかは、いっさい問題とならない。監督はただ、同僚の女性と酒を飲んだり、ちょっかい出そうとしたり、せいぜい、それがうまくいかないのでやけになって撮影所の運転手と喧嘩して殴られるくらいのことしかしない。主人公の男にしても、一見好青年で、強引なやり方は決してしないのだが、しかし考えていることは結局、どうやったら女性とやれるのかということだけなのだ。ホン・サンスの(今まで観た二本の)映画では、人と人とを関係させているのは、ようするに「それ(異性間ではセックス、同性間では異性の取り合い)」だけみたいなのだ(それと、付け加えるとすれば、先輩と後輩という微妙な上下関係)。例えば、家族や友人、同僚のような安定的、水平的、中間的な関係は、後景にしか存在しない。「それ」だけに特化されている登場人物たちが、ただ、うだうだしている。しかし、「それ」だけであることが徹底されているからこそ(そこに文学的なにおいとか思わせぶりとかが一切付加されていないからこそ)、駄目駄目な人がひたすらぐたぐだしてるだけなのに、妙にさわやかというか、すがすがしい感じがするのだと思う。