2019-03-07

●『それから』(ホン・サンス)には、三人の女と一人の男が出てくる(以下、ネタバレしています)。男は、社員が一人しかいない小さな出版社の社長でもあり、文芸評論家でもある。女の一人は男の妻で、もう一人は愛人だ。この三角関係が、この映画を形作る環境として最初にある。愛人は、出版社のたった一人の社員であり、三角関係の行き詰まりから一ヶ月くらい前に失踪している。そしてこの映画は、主に次の三つの出来事で出来ている。

出来事一。三人目の女が、男の経営する出版社に新入社員としてやってくる。その出勤初日に、愛人の存在を確信した男の妻がオフィスに乗り込んできて、新入社員を愛人と勘違いして叱責し、殴打する。男は、愛人の存在を認めながら、この人は違う、人違いだと妻に説明するが、妻は信じない。妻が立ち去った後、夜になって、新入社員はこの会社には居られないと辞意を示すが、男は謝罪し、会社に人手が必要であり、公私をちゃんと分けるからと慰留する。新入社員はそれを受け入れる。

出来事二。そこに、唐突に愛人が帰ってくる。男と愛人は抱き合い、これからは二人で一緒にやっていこうと誓う。そして男は、(舌の根も乾かぬうちに/手のひらを返したように)うちの会社は小さいので一人しか雇えないから辞めてもらうと、新入社員に告げる。新入社員は、出版社の本をたくさん紙袋に詰め(昼間、社長から、好きな本をどれでも持って帰っていいと言われていた)、タクシーで帰る。帰り道、タクシーのなかから雪が降るのを見る。

(新入社員が帰った後、愛人は、男の妻が勘違いしているなら、新入社員と付き合っていたことにして、新入社員をクビにすれば「愛人と別れた」と妻に思わせることができる、などと言う。)

初見では混乱するほどに回想場面が頻繁に挿入されはするが、ここまではたった一日の出来事である。

出来事三。それから、少なくとも一年以上の時間がたち(しかし、初見ではそれが分からないので、今までの出来事が全部無しになって、時間が振り出しにもどったのかとも思わせる)、社長が文芸評論の大きな賞を受け、そのお祝いを言いに新入社員がオフィスを訪れる。男(社長)は、最初は新入社員のことを憶えていないようで、初対面であるかのように振る舞うが---季節も出来事一、二と同じ冬であり、この振る舞いが時制を混乱させる---しばらくして思い出し、新入社員に自分と妻と愛人との関係の顛末を語る。しばらく愛人と同棲したが、結局は妻のもとに戻った、と。オフィスではまったく別の女が働いている。帰り際に社長は、新入社員に漱石の『それから』の新訳を渡す。

『それから』で語られるのは、たったこれだけのことだ。特に際立ったことや目新しい何かがあるわけではない。それがなぜ面白いのか。

時制と登場人物の同一性の混乱。この映画では、男(社長)が早朝から起き出し、まだ暗いうちに家を出る場面から、新入社員と昼食をともにする場面くらいまでは、物語の現在時が進行するなかに、愛人との過去の出来事が、時系列的にも因果的にもランダムに、頻繁に挿入される。初見でこの映画を観ているとき、これは現在時でこれは回想で、という風に場面を明確に分けられないだけでなく、そもそも「現在時」が成立しているのかどうかもよく分からない感じで、それぞれの場面を(意味的、因果的関連が分からないまま)受け止めることになる。そこで、愛人と新入社員のどちらがどちらなのかも、時に見失ったりする(髪型や服装などで見た目にはっきり対照的に設定されているにもかかわらず)。このような混乱が、男の妻の「取り違え」を誘発するかのようだ。この混乱のなかから、手探りするようにして徐々に「現在時」と「回想」とが分離していき、「新入社員」と「愛人」との対照性が際立ってくる様が、スリリングで面白いと感じられる。

この映画では、男と妻と愛人との関係は、非常に激しく、感情的なものとして提示される。それに対して、新入社員は抑制的で穏やかである(新入社員が激しく主張をする場面もあるが、全体としては、彼女は抑制的である)。激しい関係性のなかに、新入社員が場違いに迷い込んでしまったかのように存在する。三人の関係の激しさが新入社員の抑制的なたたずまいを際立たせ、逆に、新入社員の抑制性が、三人の関係の激しさを際立たせるといった、互いを引き立たせる対照が成立している。だがここで、たんに互いを引き立たせるというよりも、両者の交わらなさ、かみ合わなさが、鮮やかさというよりむしろ齟齬として、「気まずさ」や「居心地の悪さ」として現れるところが、ホン・サンスの特異性であるように思われる(激しい関係を呼び込んでしまう人と、そのような関係を避ける人との、かみ合わなさ)。

そもそも、多くの場面が齟齬によって成立しており、居心地が悪く、見ていていたたまれない感じになるし、それほどでもなくても、関係は遠慮がちで、よそよそしかったりする。男と愛人とは、激しく求め合うと同時に、激しくなじり合い、反発し合う。男と新入社員とでは、どこまでもかみ合わず、よそよそしいままだ。男と妻との間には断絶があるようにみえる。

社交的な、適度な距離を保った、なめらかな関係は成立せず、関係は常に、過剰であるか、どこか失調しているかする。そこから、人という存在のどうしようもなさ、いたたまれなさ、「業」のようなものが浮かび上がる。しかしここで「業」とは、それぞれの個に内在しているものなのか、特定の関係のなかで避けようもなく生じてしまうものなのか、そのどちらとも言い切れない。個としての性質にも、関係のありようにも還元し切れないものとして、両方にかかり、どちらかに解消されないものとして、業のような齟齬がある。同様に、個々の場面の齟齬が作品全体に波及しているのか、あるいは、関係のありようや映画としての構造が齟齬を際立たせているのか、どちらか一方ではなく、両方にかかっているように思われる。