●『けものフレンズ』にぼくはそんなにはまっているわけではないけど、最終回はかなり良かった。紙飛行機を投擲の一種だと考えると、サーバルちゃんがカバンちゃんを模倣して紙飛行機を飛ばすという出来事が一段と味わい深く思える(投擲の巧みさは、動物としてのヒトの大きな特徴の一つ)。
というか、今まで気付かなかったけど(今更気づいたのかという感じだけど)、これ「ドクターモローの島」だったのか、と。「ドクターモロー」を、動物たちが「たーのしー」とかいってる肯定的な話にしてしまう、日本のアニメの底なし沼のようなキャラクター化の力ってすごいな。
カバンちゃんが、ミライさんの帽子に付着した髪の毛がフレンズ化した人間のフレンズだとしたら、島の外に人間の社会があったとして、彼女はそこで受け容れてもらえるのだろうか。セルリアンに食べられることでフレンズ化が解けたから、人のフレンズではなくて人になったのだとしても、生殖によって生まれたヒトではなく、いわばミライさんのクローンみたいなものだから、難しい立場に立たされるかなあ、と(この作品に関して、こんな現実的なことを考える必要はないのだが)。
ヒトではなく、フレンズ化したヒト、というのも面白い。フレンズ化するというのはヒト化(擬人化)するということだから、ヒト化したヒト。現存在と存在者みたいなものなのか(違うか)。フレンズ化の力によって髪の毛からヒトのフレンズになって、さらにセルリアンによって脱フレンズ化しても髪の毛には戻らなくてヒトになる。非可換的である、と。
カバンちゃんが、なぜボウシちゃんじゃなくてカバンちゃんなのか(明らかにカバンより帽子の方が目立つのに)。これは、動物型のフレンズの視点から見ると、頭部の形状としては、羽根のついた帽子のような形状は特に珍しくないけど、カバンを持っているような動物は他にいないので、カバンの方が目立つということだろう。しかし、物語的にはカバンはそれほど重要ではなく、話の終わり近くになって帽子の重要性が高まることで「人(ミライ)」の存在の気配を強めていく、という流れも、なかなか考えられているなあ、と思った。
(あ、でも、カバンちゃんがなぜカバンを持って生まれてきたのかが分からない。帽子はミライさんのものだとして、カバンはどこから来たのか。どこかで理由が説明されていただろうか。)
伏線というものともちょっと違うけど、改めて観直すと味わい深い細部、みたいなものがいろいろありそうな気はする。
(検索したら、元ネタ「ドクターモロー」説を作者が否定、という出来事があったみたいだけど、作品の構造と作者の意識や意図は別だ。作者が何をどう考えて作品をつくったのかということと、実際に、作品自身がどのような構造をもち、ロジックをもっているのかは切り離して考えるべきで、観客の「考察」に対して作者が介入するのって、どうなんだろうかと思う。というか、そもそもこの話の設定をみて、これをドクターモローじゃないという事の方が無理があると思う。)