●ある時期、言語を学習する能力はそれに特化されたものとして生得的に脳に埋め込まれているとする、チョムスキーやピンカーなどによる実在論(唯物論)的な議論が一定の説得力をもち、ポストモダン的な相対主義に対する強い批判として機能した。しかし現在では、ヒトを構成するせいぜい二万数千種類程度のDNAでは、複雑な脳のネットワークの設計図としてはどう考えても情報量が足りな過ぎるとされ、ある程度の階層化や構造化は生得的であっても、特別の機能に特化した能力の生得説には無理があるとされてきているようだ(このへんの議論については山口裕之『認知哲学』の「生得性再考」の項を参照)。そもそも「生得性」という概念そのものが考えなおさなければならないとされ、DNAに書き込まれていることに加え、その種(例えばヒト)が生育する典型的な環境もまた、生得性のなかに含めて考えるべきではないか、とされるようになってきているようだ。逆に言えば、DNAには、その種が生育される環境との相互作用が先取りされていて(つまり環境とDNAは入れ子になっていて)、そこには環境を前提とした情報が描き込まれている、となる。だとすれば、ヒトは誰でも、言葉を話す人たちの集団の中で生まれ、他人の保護なしに自律して生きることのできない状態で生まれてくる(つまり、無力な状態のままで長期間、自分より圧倒的に優位に立つ他人の世話になる)、という環境は既にDNAにとって前提である(織り込み済み)と考えられる。そうなると当然、「生得性」のなかに精神分析的要素の影響が入り込む余地は十分にある。
「生得性」のなかに「環境」との相互作用という要素が加えられた途端に、「生得」は固定されたものではなく幅とズレをもつものとなり、さらにニワトリとタマゴ的なループさえ生じ、実在論(唯物論)者がいったん退け得たと考えたポストモダン的な相対主義が、再び否応なく回帰してくることを避けることができなくなる。勿論それは、以前と同じ「そのままの形」で、というわけではないにしろ。
●「世界は外側から客観的に記述できるし、それを目指すべきだ、哲学はうぜえ疑似科学」という実在論(唯物論)派と、「哲学抜きで世界の記述などありえない、実在論は薄っぺら」とする非実在論派との争いは、いわば神学論争であり、あるいは、共和党と民主党の勢力争いのような政治的抗争であり、よって、排他的であると同時に、勝利は常に逆転可能な相対的で一時的なもので、どちらか一方の完全勝利で決着することはありえない(ここでは、実在論と非実在論というより、唯物論と観念論とを、オブジェクトレベルとメタレベルとを、あるいは現実と幻想とを、「切り分けることは可能だ」し、そうすべきだという立場と、そもそもそれらは「切り分けられない」とする立場、という言い方のほうがいいかも、勿論これは無茶苦茶に大ざっぱな話です、念のため)。
いやそもそも、「実在論と非実在論の抗争が神学論争だ」という考え方は、実在論からみれば「非実在論者のレトリック」に過ぎず、意味のない(有害ですらある)神学論争をしているのは非実在論者のみであって、実在論者はそれを避けてまさに「実在」について客観的に語っているのだ(少なくともそこに漸進的に近づいてゆくための「正しい」手続きがあるのだ)、ということになるだろう。だからここで議論はあらかじめ斜めにズレてさえいるのだろう。
●この、いわば科学の右派と左派との、おそらく永遠に終わらないシーソーゲームのなかで、その時々の状況によって(あるいは、一人一人の人によって)、一方が他方よりもより説得力があるように「みえる(みえてしまう)」ということなのだと思う。これは終わらないシーソーゲームだから、どちらか一方に真理が確定的にあるわけではない(たぶん、きっと…)。しかし、どちらか一方の説明がより強い説得力(リアリティ)をもつように「みえてしまう」(悟性によって選択されるわけではなく、何故か「みえてしまう」)以上、その時々でどちらかの位置に位置取らざるを得ない。しかし状況がかわれば、それは何度でも逆転する。勝ち逃げすることはきっと誰にもできない。それを十分に知っているにもかかわらず、個々の状況において、あるいは個々の人において、イデオロギーがプラスマイナスでゼロ、というわけにはいかない。誰でもが無色ではありえないし、その対立の外にも立てない。
(いや、その外に立っている、あるいは少なくとも、外に立つための手続きはもっている、とするのが実在−唯物論なのだろうけど…)
●どちらもある程度は真であり、しかしどちらかが決定的に真であるとは言えない終わりのないシーソーゲームに、一体意味などあるのだろうか。おそらく、「政治」や「イデオロギー」にそれ自身には意味などないように、それ自体には意味はないのではないか。しかし、際限のない揺り戻しの反復のなかから抽出され、結果として蓄積される認識の深まりということはあるのだと思う。気に入らなければすぐに手を出して殴り合うようなガキのケンカから、ユーモアをまじえた余裕ある嫌味の応酬へ、そして、相手の立場を「味わい」「楽しむ」ことさえ出来るような形での議論へと、「ケンカ」の形式や作法が深まってゆくように、何度もひっくり返っては揺り戻すリアリティの移動(世界観の崩壊と再編成?)の過程を通して深まってゆく、(どちらの陣営−世界観にも属さない、中間派というのではない、どこでもないどこかとしての「中間」にある)何かが、おそらくあるはず。
●例えば、スポーツ選手は相手と「真剣に闘う」が、その闘いは相手を否定するためになされるのではなく、その真剣さは、相手を十全に「味わう」ためのものではないだろうか。ゲームは勝つためにするのではなく、互いに互いを「味わい合う」ためにするのであり、勝ち負けがあるのは、互いに相手を充分に味わうことが出来る力を発揮させるための仕掛け(動物としてのヒトにはどうしても「闘争本能」のようなものがセットされてしまっているから)なのではないか。卑怯なプレーや怠慢なプレーが悪であるのは、それが「十分に味わい合う」ことを損ねるからではないか。敵対しつつも互いに相容れない相手を味わい合う。たんなるケンカが、このようなスポーツのようにまで高度に昇華されてゆくような過程こそを、「知」として考えられないだろうか。
●人の認識は、そのようにして果てしなく繰り返されるシーソーゲームの真ん中で、少しずつ深まってゆく、のだろうか。