●地元ではどの本屋にも「現代思想」が置いてない。駅ビルにある、おそらく一番大きな本屋にもなかった。駅まで来たのだからと電車に乗って藤沢まで行く。藤沢にはジュンク堂が出来ていた。高校生の頃は、本はだいたい藤沢で買っていた。本屋は、未知の大きな世界への入口のようで、輝かしい場所だった。藤沢は、ワームホールのある一番近い土地、のようなイメージ。ダイヤモンドビルとか、懐かしい…。
●生まれてから成人するまで住んでいて、その後二十数年離れていた土地に戻ってきたせいか、記憶がいろいろ混乱、というか暴走している。パソコンのキーボードを叩いている時にふいに、小学生の時に一年か二年くらい通っていた書道教室の、教室のにおいを感じ、それとともに教室の空間がパノラマのように頭のなかに広がった。そもそも、自分が書道教室に通っていたことなどすっかり忘れていたし、そこで何か特別の経験をした憶えもない。自分から積極的に通い出したわけでもなく、かといって嫌々通っていたのでもなく、なんとなく淡々と通っていて、そしてそんなに長続きはしなかったはず。確か妹と一緒に通っていた気がする。
キーボードを叩いているという行為、その時に書いていた文の内容、その場の状況、どれをとっても書道教室へと連想がつながる何かがそこにあるとは思えないし、そこで感じた「におい」も、その場にあるものを鼻が感じたというより頭のなかで勝手に構成されたものという感じだ。だいたい、特定のにおいから、ろくに憶えてもいない書道教室を探り当てるほどに自分の嗅覚が敏感だとはとても思えない。そして、書道教室に通っていたという記憶のぼんやりとしたあいまいさに対して(そういえばそんなことがあったかも、程度だ)、そこで感じた「におい(というか、「においの同一性」)」と空間的広がりのリアルな生々しさはまったく釣り合っていると思えない。何かしらのエピソードが思い出されたのではなく、ただ、空間とその場の空気感のようなものが強く惹起されただけだった(「におい」の感覚は新鮮だったけど、すぐに消えて、よく思い出せない)。
●あと、少し前、眠っている時に、感覚のなかに「父親が昔使っていたヤナギヤのヘアトニック」(昔のおっさんは皆つけていた)のにおいが入り込んできて、それで目が覚めてしまったということもあった。もちろん、そんなにおいは「そこ」にはない。父親に関する夢をみていたということもない。むしろ、夢や睡眠を阻害するように、そのなかに強引ににおいの感覚が割り込んできた感じ。眠りのなかに目覚まし時計の音が強引に割り込んでくるように。でも、そんなにおいは実際には「ない」。
●でもなぜ「におい」なのか。ぼくは決してにおいに敏感な方ではなく、むしろ、子供の頃からアレルギー性の鼻炎があったりして(要するに「花粉症」なのだが、当時はそんな言葉はなかった)、鈍感な方だと思うのだけど。