●引用、メモ。グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。
●唯物論のふたつのタイプと、それに対するオブジェクト指向哲学
《今日の唯物論にも、ソクラテス以前の哲学に由来するふたつの基本的なタイプを見いだすことができる。一方にはマルクス主義者や物理学者たちの系譜において好まれる唯物論がある。彼らにとって、究極的な物質的要素こそがあらゆるものの根源なのであって、高次の存在者はそこから派生するまやかしにすぎない。このまやかしが実在性を帯びるのは、ただ究極的な物質的基体から表出するかぎりにおいてなのだ。(…)この系譜の唯物論は、一般に批判的な雰囲気をもっており、古来から今日にいたるまで啓蒙的な立場の人たちによって好まれてきた。〔彼らにしたがえば〕天使や神、素朴心理学についてはいうまでもなく、テーブルや木、脳でさえもが、究極的要素の観点から消去されねばならないのだ。》
《だが一方で、アペイロンの唯物論がある。この唯物論からすれば、科学における物理的存在者でさえも、じゅうぶんな深さをもつものではない。というのも、そうした存在者は「宇宙の最下層」とみなされている以上、すでにあまりに特殊な構造をもってしまっているからだ。(…)〔この種の唯物論にしたがえば〕宇宙は、そもそも微少な物理的部分からできているのではなく、むしろ形なき---あるいは、わずかに形をもった---全体である。個々の部分は、その全体から一時的で局所的な強度としてのみ現れるにすぎない。世界はその性格からして前個体的なものであり、なによりもまず流動や流出、生成変化からなる。世界は根本的に連続体であって、これを局所的な領域へと切り分けるあらゆる試みは、そもそも一時的で相対的なものにすぎないのだ。たいていの場合、このタイプの唯物論には批判的な雰囲気はなく、全体論的で肯定的な傾向がある。(…)情緒も社会的実践も、粒子に劣らず実在的である(粒子でさえも、宇宙全体の束の間の現出にすぎない)。》
《オブジェクト指向哲学は形式の権利を主張する。形式は、それぞれの規模において〔固有の〕構造をもつ。それは、勝ち誇った物理的存在が属す特権的な層に還元されることもなければ、諸差異を越え絶えまない流動における連続的変化とみなす宇宙的全体論に還元されることもない。〔たとえば〕猫やテーブルは不滅ではないかもしれないが、それにもかかわらず環境の変動に抵抗する。》
●「湖」という「対象(オブジェクト)」は「形式」である。
《要するに、湖はひとつの形式なのである。〔しかし〕科学者は湖を唯名論的に捉え、それを一連の変化する水の集合に対するたんなるニックネームとみなすだろう。〔科学者にしたがえば〕水の集合が、時間をかけて、ただ緩い意味において「ミシガン湖」と呼ばれうるほどにじゅうぶんな家族的類似性をもつにいたったにすぎないのだ。他方で、全体論的な立場は、湖をたんに相対的な〈湖性〉の領域とみなすだろう。つまり〔全体論にしたがえば〕湖は基本的に近隣の湖や岸辺と連続した領域なのである。以上のふたつの唯物論が逸しているのは、湖が自らの近隣の湖や因果的構成要素から切り離す方法だ。そうした切断があることによって、湖は〈非-湖〉のあらゆる力が自らのうちへと出入りすることをある程度許容し、しばらくのあいだ(たとえ永久にではなくとも)存続する形式でありつづけることができる。》
《オブジェクト指向哲学は、対象を形式としてあつかう。形式は、自らが生じてきたところへと勝手に崩れ去っていくことはない。(…)哲学の仕事とは、自ら記述し認識する仕方ともけっして同一ではない、捉えがたい形式を研究することである。対象の形式は、物質的基体と具体的な(任意の瞬間・任意の文脈における)現れとのあいだに隠れている。形式は世界の床板のうちに隠れているのであって、その床板を、すでに知っているとみなされているもの(床板を構成する物質や床板がもつ効果)によって置き換えたとしても、形式を知ることはできない。》
●「対象」は、つねに触発しあっているのでもなければ、つねに関係しあっているのでもない。
《(…)わたしは最初に対象の無関心性を主張しておきながら、そのあとで、おそらくわたしの意志に反して、対象どうしのある種のコミュニケーションに言及していることになる。しかし、〈コミュニケーションし、かつコミュニケーションしない〉という対象のこうした二重の運命は、オブジェクト指向哲学の核心をなしている。この核心的な論点は、まさに対象と関係とのあいだの「均衡」を生み出すためにこそ設計されたものだ。》
《重要なのは(…)関係は自動的に生じることもないし、容易に生じることもないということだ。人間は、周囲で生じる小さな事柄の一々によって影響されることはない。それは、構造プレートがたえず大地震を引き起こし、火山が絶えず噴火しているわけではないのとおなじことだ。事物はつねに触発しあっているのでもないし、つねに関係しあっているのでもない。(…)というのも対象は、それが無関心なものであるかぎり、まったく活動していないからである。》
《(…)もしわたしたちが、対象は宇宙的な〈物質-エネルギー〉に取り巻かれることによって、つねにすでに関係しあっているのだと想定してしまうならば、〔対象どうしの関係を〕真剣に説明することはできなくなってしまうだろう。》