●例えば、あるリズム感を習得しようとする時に、まずは、良い例と悪い例とを聴き比べて、その違いを把握することは必要かもしれない。しかし、いったん「違い」を把握できたならば、その後にすべきことは、ひたすら良い例を聴いてそれに近づこうと努力することであって、悪い例の「どこが悪いのか」を探求する(分析する)ことではないと思う。否定的なものからは、それが否定的であるということ(それは「違う」ということ)くらいしか学べないのではないか。反面教師への強すぎる反感は、逆にそれにとらわれること(執着)になる。
ぼくは舞城王太郎の『熊の場所』には否定的だ。あのように考えることこそがトラウマへの固着を生んでしまうのではないかと思う。熊の場所へと戻ってやり直すのではなくて、そんなものを忘れてしまうくらいの充実した別の場所を新たに探し出す、あるいは作り出すことにつとめた方がいいんじゃないだろうか。あるいは、トラウマさえ肯定的なものに書き換えてしまうような新たな文脈をつくりだそうとする方がいい、と思う。努力は、そっちの方に向けた方がやりがいがある。
それには、多少の無責任と忘れっぽさが必要だろう。
人文的な思考の一つの罠として、すぐに「歴史」を参照してしまうといことがあるような気がする。現時点で働いている様々な力とその相互作用をみるのではなく、根源のようなものへと遡行して、そこからの線的な展開(物語)によって現状を説明しようとする。そうするとなんとなく原因が分かったような気にはなる。もし仮に、その「原因」の分析が因果的に正しかったとして、そんなに根源的な場所に原因があったとするのなら、現状が現状のようであることには強い必然性があることになって、いろんなことを根本から変えていかないと現状は変わらないことになって、そう考えるといろいろ萎えてしまう(あるいは極端な行動や思想にはしるしかなくなってしまう)。しかし、そう感じてしまうことこそがトラウマへの固着であり、「主体」による束縛というものなのではないか。
現状で作動している様々な力の絡み合いの配置を、少し動かすことができれば、あるいは、新たな何かしらの力の出現によってその配置が変わるとすれば、「原因」がまったく消えてしまうのではないとしても、それほど気にならないものになる(原因は依然として作動しつづけているとしても、それは作用し合う多数の諸原因のうちの「一つ」に過ぎなくなる)こともあるかもしれない。あるいは、諸悪の根元であったはずのものと同じ「原因」が、逆にいい感じで作動し出すこともあるかもしれない(結局、人の長所と短所は同じところにあって、それがその場の状況によってどちらに転ぶかということにすぎない、みたいな)。回帰する抑圧されたものを、ポジティブなものとして回帰させる文脈(配置・空気)の変化というのもあると思う。現在から根源へと遡行するのではなく、ある歴史的発見によって現在の文脈が唐突に変わってしまうこともあるだろう。
(遡行ではなく発見。例えば、二十世紀では、人間と動物は---主に言語の使用による---非連続性によって捉えられることが多かった---人間は本能の壊れた動物である、的な---が、二十一世紀になって、むしろ連続性の方が強調されることが多くなり、言語でさえ、動物との連続性のなかで考えられるようになった。そしてその変化は、言語そのものを探求することによってもたらされたというより、考古学、生物学、脳科学など諸科学の発展---数々の新たな発見---による科学的な知見の配置の変化によってもたらされた、という風にぼくは認識しているのだけど。そのもう一方で、人間と機械との連続性もテクノロジーによって……)
過去を書き換えるような現在の配置の組み替えがあり、現在の配置を変えるような過去の発見(組み替え)がある。最も新しい発見が、もっとも古い過去を書き換えるかもしれない。過去が現在に影響を与えるのと同様、現在も過去へ影響を与える。過去を起源や根源(原因)として考えるよりも、そのような「力の絡み合い方」を動かす過去と現在との相互作用について考えた方がずっといいように思う。
勿論、そのように考え、そのような方向で努力したからといって、必ずしもうまくゆくとは限らないわけだけど(やっぱり「原因」のもつ重力は強固だし現実は厳しい……、となるかもしれない)、そうだとしても、そうやって生きていく方がずっとマシなのではないかと思う。
(例えば、歴史修正主義みたいなものは幻想的な「ヘタレ主体」を防衛するためのものでしかないから、それこそトラウマや主体に拘束されてしまっているわけで、そういうのとは違う。)