2020-04-02

●現状をよくみて、この世界のなかでどのように振る舞えば最も高い利得を得ることができるのか、という基準で考え、行動する人と、現状をよくみて、そこから問題点を探り出し、どうすればそれを改善できるのかという基準で考え、行動する人との間には、大きな違いがあるように思われる。後者の立場から、前者を「嫌いになる」ことはできるとしても、「批判する」ことはできるのだろうか。

(前者は、いかにも私利私欲にまみれた人、のようにはみえない。周囲からの評判や評価が、自分の利得にとって欠かせないものだと知っているから、周囲に配慮し、礼儀を重視し、他者を思いやり、社会的な役割を果たし、抑制的に振る舞うだろう。あたかも後者であるかのように振る舞うことによって、結果として利得を得ることができることもある、ということくらいは当然考える。前者である方が、配慮ある大人にみえるし、善人にみえるだろう。結果として前者は「良い人」となるだろう。そして後者は、どこまでも「厄介な人」「困った人」であるしかない。美談は常に前者のためのものだ。)

現状のなかでできるだけ髙い利得を得ようとする行為は、一般的に考えれば、現状を強化し固定する方向に働く力となるだろう。前者の問題は、現状(それぞれに固有のローカルな体制)に最適化してしまっているため、「現状」が、その外にある「現実」に対処しきれなくなった場合、そのサインを見逃してしまいがちになるということだろう。現状に最適化した者は、「現状」がつづく限り髙い利得を得つづけることができる。しかし、「現状」が崩壊してしまえばその利得を失う。

つまり、利己的に振る舞う者も、その置かれた位置によっては、現状を変革しようとすることを目指すというポジションをとった方が、自分にとっては利得が大きいという場合もある。利己的な者が最適化している(マイナーな)環境である「現状」が「現実」の変化に耐えきれなくなって崩壊せざるを得ないような場面では、次の局面を予測し、積極的にそっちの方へと乗り換える動きのなかにいる、ということによって、現状を肯定するよりも自分にとって得であることになる。ここに、現状維持の方向で踏ん張るか、新たな体制への乗り換えを図るか、どちらが自らの利得となるかという選択の余地が生じる。

おそらく、実際に「現状を変える」力になるのは、後者であるというより、めざとく「現実」の変化の兆を読み取った前者の動きなのではないか。一方後者は、どのような時代にも具体的な力となることはなく、しかし、どんな時でも常にアナクロニックであるような、変化のための「潜在性(あるいは媒介)」として存在する、ということではないか。