●レクチャー、メモ。
●今、目の前にあって見えている色のもつ「感覚の質」は、それを「今、見ている」ということによってしか発生せず、そこから目を外すと消えてしまう。しかし人は、ショッキング・ピンクとかバーミリオンとか言うし、マティスのブルーとか言ったりする。それは、その色が目の前にない時でも、イメージ出来るし、比較対象がなくても、ある程度の同一性は認識出来る。それは、色を見るという行為によって得られた(色から浮かび上がった)色の「かたち(イメージ)」であり、「かたち」であることによって、記憶し想起することが可能になり、同一性を確保したままで持ち運びが出来るようになる。
●今、見えていることによってしか得られない感覚の質も、色を見ることで得られた色のかたち(イメージ)も、それがあるのは、それを見ている人の頭の中であって、その色が塗布され、あるいは投射されている物の表面ではない。ある物体から発せられている光の波長を厳密に計測することは可能だが、その数値の同一性は、その色を見ている人の頭のなかで起こっている「感覚の質」の同一性を保証しない(「かたち」とは、それを見ている人が「見る」という行為のなかで「掴む」もので、客観的な形態とはちがう)。色の感覚は、その色と隣り合っている別の色(あるいは、その色が置かれている環境)によってことなるし、その色の面積や形態によってもことなる。あるいは、色の感覚は、それを見ている人の体のコンディションや気分、視力や体力によって影響を受ける。だから、もし「感覚の質」の同一性を外的な装置による計測によって確保しようとするならば、その色を見ている時の、その人の脳全体の状態がスキャンされる必要がある。しかし、その脳全体のデータは、感覚の質の同一性(あるいは非同一性)は保証しても、その内実については何も語らない。
●「かたち(イメージ)」は、感覚的な過剰を縮減して得られるというよりは、感覚的な過剰から「創造」される。かたちを掴むとは、かたちが頭のなかで創造されるということで、それはかたちを掴もうとする人の、行為や現実(色彩)との関係の取り方のなかから生み出される。だから、今、見ている色によってもたらされる感覚の質と、そこから掴み出されたかたち(イメージ)との関係は、決して確定的なものではない。だとすれば、その「かたち(イメージ)」は、それを見る人の行為や関心の変化によって(感覚的なデータが同一だったとしても)変化し得る。ある感覚的データから一旦掴み出された、ある色の「かたち(イメージ)」が、「見る」行為の質的変化によって、より適切な別の「かたち(イメージ)」へと移行したとき、最初に発生して、その後に別のものにとってかわられることによって溢れ落ちてしまった「かたち(イメージ)」が、ある同一性を確保したまま(どこか見えない場所に)存続しつづけるとき、それは「幽霊」となる。
●今、見ている色によって生じている感覚の質も、その色がもたらす感覚的データから掴まれた色のかたちも、別のかたちによって取って代わられて潜在化したもう一つのかたち(幽霊)も、そのどれもが同等に、外側からは計測不能であろう。感覚の質は、その色から目を外すことで消えてしまうとしても、一度発生した「かたち」は、潜在化しつつも存続して幽霊となるとすると、その幽霊と化した「かたち(イメージ)」は、本来、そこから発生した「感覚の質」とはまったく別の出自をもつ別の「(感覚された)質」に唐突に貼り付いて回帰することもあり得る。おそらく我々の頭のなかには、このようなエラーが頻繁に、そして複雑に錯綜しつつ起こっている。幽霊(的イメージ)は、このようにしてふたたび現実的な認知のなかに場所をみつけ、顕在化する。
●幽霊は、私の意思や都合によってあらわれるのではなく、あくまで「それ(脳?)自身」のメカニズムに従って現れるので、幽霊は私の意識にとっては常に唐突にやってくる(私の意識にとっては常に「外部」からやってくる)。しかしそこにはある一定の予感、幽霊があらわれそうな気配が存在しているだろう。疲労や身体の失調による分節的意欲の低下、人間的、社会的諸関係の悪化による認識に関する自信の喪失、退行、あるいはまったく逆に、過度な意欲や活動による脳の過剰な発熱、過剰な作動による混乱、誤作動、等々。その時、私の意識を裏切る、「私の身体(脳)のメカニズム」そのものが、「物」のように明確な密度と強度をもって、私の外側から到来するようにあらわれる。