●出歩いた日。横浜の神奈川芸術劇場で快快『りんご』。そのあと、山下公園(今週二度目)。銀座なびす画廊で松浦寿夫展。そして、馬喰町のギャラリーαМで、浅見貴子展の深夜のシークレット・クロージング(林家たい平ミニ落語会)。
●浅見展のイベントが深夜だったので東京駅近くのネットカフェで時間をつぶしていて、トイレに行こうと思って個室から出ると、廊下で、腰に小さなタオルを巻いただけのほぼ全裸のおっさんが歩いてくるのと行き当たった。出会いがしらにおっさんが「わお」みたいな声を発したのが印象に残った。
●『りんご』(快快)。初快快(短いパフォーマンスはどこかで観た記憶がある)。二部構成なのだが、二部があってよかったと思った。一部は、決してつまらなくはないけど特にこれと言って感じるものはないという感じだった。懐かしいというか、八十年代の小劇場みたいだと思いながら観ていた。大仕掛けの装置や、笑いあり涙ありの展開など、ドリフの「全員集合」のコントみたい、とかも思った(五人だし)。悪くはないとは思うけど、戯曲(というか、主題の展開や語られるテキスト-セリフ)も、演出も、演技も、ダンスも、練りとか冴えとかがどこかで足りてない感じで(たとえば、エレベーターという装置が「小ネタ」を超える形では劇のなかで有効に機能しているとは思えない、とか)、正直、「そこそこ」という感想しか持てなかった。そして、どうしても随所に「幼さ」みたいなものも感じてしまった。
●客にわざわざ楽屋の方を回って舞台の後ろ側から入場させる感じとか、入場した時には既に舞台上で俳優がウォーミングアップしていたり、演出家も舞台上にいてかかっている曲に合わせて踊ってたり、知り合いの客とあいさつして「わーっ」とか言っていたりするようなだらっとした感じとかがすごく良くて、開演前は、こういうリラックスした感じのままで本編もいくのかと期待したのだけど、開演のブザーが鳴ったとたんに、俳優が客に向かって声を張ってセリフっぽい言葉をしゃべりはじめて、ああやっぱりまた「演劇」がはじまってしまうのかと、その時点でちょっとがっかりした。
●でも、二部がはじまって、ああそうか、この人たちはこういうことがやりたい人たちなのかと納得した。いや、やりたいとかやりたくない以前に、「この人たちはこういう人たちなのか」ということが生々しく納得できた感じがあった。そして、それはとてもいい感じだった。一部だけだと、正直どうでもいいという感想しかなかったのだけど、二部があって、これを観られてよかったと思い直した。この人たち面白いな、と。
しかし、だからこそ、なぜ一部があるのか、こんなに半端な「物語語り」みたいなことをするのかがなおさら分からなくなった。いや、なぜこんなことをするのかという説明は、配布されたテキストに書かれているのだけど、ぼくは作家の言葉ではなく作品にしか(と言うか、目の前で起こったことにしか)興味がないので、そこからは全然説得力は感じられなかった。
●だけど、その二部も、なぜか最後はきれいに終わろうとする。なんで最後にそんな「いい話」で締めようとしてしまうのかと思ってしまう。下ネタやバカ話に終始した飲み会がお開きに近づいたころに、誰かがいきなりしんみりと「オレの不安と将来の夢」を語りはじめて、みんなもそんなモードになって、「オレたち明日からまたがんばろうな」「オーッ」みたいなノリで飲み会終了みたいな、えーっ、という感じがある。なんでバカ話のノリのまま終わったらいけないのか、という納得の出来なさがある。いやまあ、バカ話としんみり話の両方があってこその飲み会なのだ、ということかもしれないのだけど…。
そのしんみり話を字義通りに受け取るとすれば、言っていることはぼくもまったくその通りだとは思う。でも、それをそこで「言う」こととそれを「する」こととは全然違うと思う。そこでわかりやすくそれを「言う」ことは実は、それを「する」ことを裏切っているのではないか、と。
(ラカンの短時間セッションじゃないけど、「終わり方」ってすごく重要だと思う。)
●一部で語られている物語や物語への希求のようなものは、ぼくには借り物のボキャブラリーで語られているものであるように思われた。だから、言っていることとやっていることとが乖離しているように感じられてしまう。
もし物語を語ることが本当に重要なのだとしたら、人の頭をいきなり大根で殴ったり、金盥が上から落ちてきたり、行き詰まってどうしようもなくて全裸になったり、悪ふざけにもならないような痛い展開を痛いままで強引に推し進めたり(本当に痛い人たちで素晴らしいと思った)、そして結局のところ、最後には踊るしかねーだろ、みたいな、そういう(二部でやられた様々な)ことのなかから、物語が立ち上がってくるのでなければウソなのではないか。それらしい「語りの技法」を借りてきても、それでは「そこそこ」の説得力しか出ないのではないかと思った。
●全体として、作品としては、ぼくはこれをいいとは思えなかった。でも、とてもいい感じのところがあって、それを観られたのは本当によかったと思った。