●日暮里のd-倉庫で、フランケンズ『44マクベス』。最初は、初日とトークのある日は避けて、金曜か月曜に観に行こうかと思っていたのだが、朝起きて、ああ、今日が初日だなあと思ったら、そんな余裕こいてないで、観たいと思うなら素直にさっさと観に行くべきだと思い直し、初日に行くことにした。あと、これから観に行こうと考えている人で、d-倉庫にはじめて行く人は、道に迷ったり、人に道を聞いたりする時間も計算にいれて、余裕をもって行った方がいいです。地図が超分かりにくく、目印になるモスバーガーが超目立たないです。
●開演時間が押したこともあり、終演した時に時計をみたらほぼ十時になっていたという、二時間を越える力作。で、シェイクスピアってやっぱ難物なんだなあと思った。『遊び半分』を観た時には、絶妙なというか、微妙なというか、バランス感覚によって、オリジナルの戯曲に対する距離感、あるいは演技する-上演するという行為の危うさに対する距離感、への配慮が細部にまで行き渡っていて、「古典」を「今」、自分たちが「上演する」という、三つの合致しがたいものを、それぞれをきちんと尊重しつつ、あやういバランスで共存させていたように思った。それが、フランケンズ以外では観たことのないような独自なものだと思えた。だが、『44マクベス』では、シェイクスピアをなんとかこなした、ということろでいっぱいいっぱいみたいな感じがした。それは単純に、登場人物が多過ぎて、その俳優の一人一人の、演技や衣装や小道具をきっちりとつくりこむ時間の余裕もなかったのかもしれない、というところまで含めて。フランケンズの四人プラス、ゲスト数人、というくらいのスケールと同じようにいかないのは仕方ないことかもしれないけど。
内容的にみても、『マクベス』に内在する雑多な要素に引っ張られすぎていて、その多過ぎる要素の一つ一つのいちいちを、中野さんやそれを演じる俳優たちのなかで吟味し、距離や違和感を考慮した上で、落とし込むべき形をみつける、というところまでは行けてなかったように思われた。それは、中野さんが『マクベス』というオリジナルの戯曲に対して、どういう通路(とっかかり)をつくり得るのかということが、いまひとつ明解ではなかったからなのかもしれない。ぼくは演劇を「つくる」ということについてよく分かってないので、演劇の、新作の初演というのはある程度このようなものであるのは仕方ないことで、公演を重ねることで次第にこなれ、あるべき形になってゆく、ということなのかもしれないけど。『マクベス』の何がやりたかったのか、あるいは『マクベス』で何がやりたかったのか、というところまでは行けてなくて、『マクベス』の一つのユニークな解釈、みたいに見えてしまう感じ。(いつものように、まったく別のタイトルにするのではなく、「マクベス」をタイトルのなかに残してしまったというのも、やりきれてなさの一つなのかもしれない。まず『マクベス』という作品のネームバリューの大きさに負けてる、というか。)
とはいえ、シェイクスピアという巨大なものに思いっきりぶち当たって、見事に砕けた(という言い方はあんまりだと思うけど)という迫力はビシビシ伝わって来る感じで、二時間を超える公演の間、いっときも退屈だとかかったるいとか感じたところはなかった。上演として(演出として、演技として)上手くいっていないというのか、時間が淀んでいるところとか、ゆるんでいると感じられたところは、正直けっこうあったと思うけど、そのような場面でも、その上手くいってなさの切実さや必然性が伝わるので、決して退屈はしない。信用出来ないというのか、それ「嘘」でしょう、嘘ついて、無理して取り繕ってるでしょ、というような感じは一切ないと思った。作品にとって重要なのは、上手くいっているかいっていないか、突っ込まれる隙があるかないか、ではなく、やっていることが信用出来るのか出来ないのか、面白いか面白くないか、であるので、その意味では、(上手くいってなさまで含め)信用出来る感じだし、とても面白い。でも、フランケンズ独自の軽やかさにまでは達していない感じはする。
あと、いつも思うのだけど、舞台の空間の使い方がすごく面白い。上下に二列、横に四つ並んだ八つの部屋と、その前のひろがりという風に仕切られた空間のモジュールを、俳優の動きによってその都度、連結=分節し直すことによって、たいして広いとは言えない舞台を、とても大きく感じられるように使っているし、まったく変化しない一つの装置がずっとつづくのに、『遊び半分』の時の装置の大展開にも負けないくらいの、空間の多様な表情の変化をつくりだしている。ぼくは演劇をそんなに沢山観ているわけではないけど、舞台空間をこんなに自由自在に使える演出家って、なかなかいないのではないかと思う(よく、ストライクゾーンを広く使えるピッチャーとか言うけど、本当にそういう感じ)。ただ、ここでも、俳優が一度に大勢出て来る場面では、いまひとつ動きや配置が練れていないようにも思われた。
●まるっきりどうでもいい話だけど、舞台上のマクベスが履いていたズボンが、ぼくが履いて行ったズボンとそっくりだったのに驚いた。
●帰りの混んだ電車のなかで、ふと窓を見たら、角度からいって当然そこに自分の顔が映っているはずの場所に、自分が自分の顔として知っているものとはまったく違った顔が映っていた。勿論、混んでいたので、微妙な角度で前に立っている人の顔がそこに映っていただけだし、意識はそのことを瞬時に理解したのだが、その、合理的な理解に至るまでのほんの一瞬だけ、自分がまったく別人に入れ替わってしまったという思いが、すごくリアルな感触で湧き上がってきたのだった。ほんとにリアルにそう感じた。