●お知らせ。先月、渋谷アップリンク・ルームで行われた「コラボ・モンスターズ!!の魔」での、高橋洋さん、古澤健さんとのトークライブのレポートが、コラボ・モンスターズのサイトにアップされました。高橋洋さんの作品について話しています。自分で言うのもなんですが、これはけっこう面白いんじゃないかと思いました。下のリンクは「その1」ですが「その5」まであります。
http://collamon.jugem.jp/?eid=189
●劇場版『シュタインズゲート』への準備として「シュタゲ」を改めて通して観直した後に、アニメ版の「ハルヒ」も少しずつちょっこちょっこと観ていて(「シュタゲ」と「ハルヒ」は姉妹のような作品だと思うので)、第一期、第二期、劇場版と観てきたのだけど、前に観た時はそんなことあまり感じなかったのだけど、今回見直していて、ハルヒというキャラをやたらと生々しく感じてしまった。なんというか、ハルヒの孤独と退屈と苛立ちとが他人ごととは思えない感じでびんびん伝わってきたという感じ。キャラとしてではなく、人として生々しい感じで。ある種の女性にみられる、ギザギザ尖った感じの不安定感のようなものを、ハルヒからリアルに感じてしまった。「ハルヒ」ってそういう作品じゃねえだろ、と思いつつも。
これは「声」からくるのかなあとちょっと思った。美少女キャラというのは、記号であり視線の対象であって、それはおそらく生身の人間から離れれば離れる(でもそこには「人」を感じさせるものが同時にある)ほど完成に近づく。日本の声優の技術というのはそのあたりは本当にすごく高度で、声優の声によってこそ人間から離れた人でない人としてのキャラが成立する感じがする(ボカロともまた違う感じで)。そこには、人間的な揺れのない、ある形式に基づいた完全に制御されたトーンや抑揚があるように思う(そしてさらにその上に個々の声優の個性も乗っけるのだからすごい)。
平野綾も、基本的にはそのような技術によって発声をコントロールしているのだけど、どこかその端っこのようなところで制御しきれていない揺らぎが残り、不安定さがわずかに声に乗っかっている感じがあるのではないかと、今回観ていて思った。そのことがハルヒというキャラに(ハルヒというキャラ自身の設定や物語内容との相乗効果もあって)特別な表情を付加しているのかもしれない、と。これは、(ジブリみたいに)非声優が声をあてたり、まだ十分にアニメ発声になっていない新人が声をあてたりするときに生まれる、軽い違和感を伴う生々しいリアルさとはちょっと違っているんじゃないかと思った。