●お知らせ。noteに、『泣く女、透ける男/中上健次「蝸牛」をめぐって』をアップしました。初出は「早稲田文学3」(2010年2月)です。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n2eef81998071
●保坂さんが川端康成文学賞を受賞したと聞いたので、受賞作「こことよそ」を読み返していたのだが、「こことよそ」が掲載されているのと同じ「新潮」2017年6月号に、森田真生が「数がつくった言語」というテキストを書いていて、その冒頭に次のようなことが書かれているのを発見した。
《小学校低学年の頃だったと思うが、「自分が死んでも、この宇宙が永遠に続いていく」という考えが頭から離れなくなり、しばらく眠れない日が続いた。自分がいつか死ぬということではなく、自分が消えたあといつまでも世界がつづくという想像に、言いしれぬ心細さを感じたのである。あの恐怖がいったいどこから来るものなのか、自分でもよくわからなかったが、いまになってみると、あのときの怖さは「数える」ことと関係している。》
ここで森田真生は「あの恐怖」「あのときの怖さ」と書いているので、あくまで子供の頃の出来事(思い出)で、恐怖はすでに解決済みなのかもしれない。でも、ぼくにとって同様の恐怖は「この恐怖」で、子供の頃から今まで、ずっと同じ強さで持続していて、現在もまだまったく解決されていない。森田真生が何かしらの認識を得ることで「この恐怖」を「あの恐怖」とすることができたのなら、それを是非知りたい。そしてそのことは、永遠にかんする恐怖が「数える」ことと関係していると書いていることと深くかかわっているのではないか。そう思って読み進めた。
とはいえ、必ずしも「解決済み」というわけでもないようだということが次いで書かれている。
《どこまでも続く数の世界は、まるで行き止まりのない遊び場である。そんな数の世界の頼もしい終わりのなさが、同時に、あのとき感じた「恐怖」にも通じているらしいことに気づいたのは、最近だ。》
《うしろをふり返ってもどこまでも続く数。前を向いてもどこまでも並ぶ数。数の世界の終わりなさが、いつしか自分の存在の理由のなさと重なっていた。》
《一つの理由には、またその理由があるから、理由の理由を求める旅は、どこまでも過去に遡及していく。どこまでも数えることができるということは、いつまでもたどり着かないということである。》
《数えることを覚えた私は、究極の理由もなければ帰結もない、宇宙のなかにぶらりと浮かぶ、頼りない自分を発見したのだ。》
だけどこのテキストの主題はこのような「数えること」と「恐怖」についてではなく、これはあくまで話のマクラで、このあとはふつうに数学の歴史のこと(むしろ「理由」について、が主題だと言える)が書かれていた。
(それはそれで面白いのだけど。)
●ぼくが生涯で最も幸福だったと思うのは1980年から1982年くらいの二、三年で、それはほぼ中学時代と重なる。ただ、この幸福はぼく個人のものであると同時に、日本全体にとって幸福な時期だったのではないかという気がしている。
保坂さんの「こことよそ」は、知り合いである尾崎という男が亡くなって、その「お別れの会」が《私》にとってとても幸福なものだったという小説だと要約することができる。そして、《私》と尾崎が知り合ったのは、《八〇年の秋、中学からの友達の長崎がATGで》撮ることになった《暴走族の映画》がきっかけなのだ。
以下は、以前のこの日記(2017年6月7日)でも引用したのと同じ部分。尾崎のお別れの会で《私》と尾崎が知り合った映画の映像が流される。小説内ではタイトルは書かれないが、この映画は長崎俊一の『九月の冗談クラブバンド』で、「内藤」は内藤剛志のこと。
《映画の主役格はそろっていない、尾崎もいないが映画が映し出される私は喜びがピークに達した、目の前で自分の二十三、四のあの時間が再現されているような気分になった、尾崎が映ってなくてもこれが尾崎のあのときであり私のあのときだ。映画はかつて暴走族のリーダーでいまは伝説となっている内藤をめぐる殺伐とした内容だが音のない映像だけを見ていると若くツルンツルンの肌でまだ幼いようなピンクの唇でしゃべる表情は、夢やあこがれを語っているようだ! 瞳だってずっと輝きがある。内藤だって私だって水晶体が老化しているから、空の青さをもうあのときのようにあざやかに見ることはできていないそのあざやかな青い空がスクリーンに映る内藤の眼差しとともに現出する---というのは後づけの言葉で私はクッキーやライムや追さんや諏訪たちと、「若い」「若い」「内藤の体が薄い」「ツヤツヤだ」「ピカピカだ」とニャアニャア騒いでいただけだ》。
八〇年代初頭は、保坂さんにとっては二十三、四で、ぼくにとっては中一、中二くらいだった。若いということも勿論あるだろうし、個人的な事情もあると思うのだけど、八十年代初頭のほんの二、三年間にだけあった「特別な明るさ」というものがあるのだと思う。その「特別な明るさ」の余波は、八十年代前半くらいまでは保たれていたように思うけど。
そしてサチモスがでてくる。次の引用も2017年6月7日と同じ部分だ。
《曲調は八〇年代ではなく九〇年代にちかいかもしれないが私は区別がつかない。あのバーからの海の眺めを思い出していると七〇年代にまでさかのぼる気がしてくるが七〇年代にこういう曲はたぶんなかった。何が八〇年代なのか定義も何もないがサチモスの音は八〇年代で、それは八〇年代の一番明るい記憶だけを私に響かせる。私の記憶ではなく八〇年代という記憶だ、サチモスを鳴らしながら八〇年代にアクセスすると明るい風景しかない。八〇年代を知らない二十代の若者たちだ、こういう音はこれまで聴いたことがない。》
●この感じは、ぼくにとってはたとえば「MINT」でとても強く感じられる。サチモスから感じられるような、特にイキッているヤンキーなわけではないが、けなげさを一生懸命にアピールするという(アイドル的)方向でもない、余裕げな生意気さというか、オラオラ系ではなく、人を見下したりマウンティングしたりする必要もなく、逆に、人を喜ばせたいとか人のためになりたいとかでもなく、自己完結的に(なんの根拠もなく)自信をもって充足しているような生意気さを若者が出しているという感じが今はあまりない気がする。というか、この感じは実は八十年代の初頭の「特別な明るさ」のなかでだけ成立し得たものなのかもしれない。だからサチモスは例外的なのか。あるいは、最近はまたちょっと違ってきているのか。Suchmos "MINT" (Official Music Video)。YouTubeより。
https://www.youtube.com/watch?v=WXk69QJ-Wr4