●ひたすら引っ越しのための本の整理。この作業が終わる日がちゃんとやってくるのだろうかという、とりとめのない気持ちになる。このアパートに越してきて八年になる、と思っていたのだが調べたら十年だった。十年分溜まったものを整理しているのか。十年前の五月のはじめ、ぼくはドアのフレームに顔をぶつけて左瞼と頬をざっくりと切ってしまい、傷口のまわりが軽く腫れて、しばらく左の白目が赤く濁っていた。その時の感じを、つい最近のことのように憶えている。その翌日、目が濁り頬に傷のある顔でゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』の試写を観に行った。月の終わりには、裏原宿にある(あった、今はない)ギャラリーで個展がはじまった。五月二十二日から六月十六日までのこの展覧会の期間中、頻繁に表参道を歩いた。この展覧会中に、日韓共催のワールドカップで日本代表がロシア戦でワールドカップ初勝利。その日、六月九日の表参道の様子は異様だった。空にはヘリコプターがいくつも飛び、地上は変に沸いて、ぐらぐら揺れる感じで、あちこちで見知らぬ人同士がハイタッチをしたり抱き合ったりしていた。ギャラリーのスタッフも日本代表のユニフォームを着ていた。あれらもう十年になるのか、と思う。そして、あと十年で何が出来るのだろうかと思う。
十年前の日記。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nise.a.23.html
●本の整理をしていて中学の卒業アルバムが出てきた。何故、実家ではなくここにあるのか不明。ぼくは1983年に中学を卒業した。ぼくの通っていた中学は当時、神奈川県で最も生徒数が多い学校だった。学校の敷地の外に土地を借り、そこにプレハブで仮校舎が建てられていた(校舎だけでは教室が足りなかった)。中学一年の時はその仮校舎が教室で、朝、校門を入り、学校の敷地を抜け、裏門から出て、その先にある仮校舎の入り口を入った。一学年は13クラスあり、1クラスの生徒数は50人以上だった。ぼくの一つ下の学年は15クラスあった。教師もいかにもな寄せ集めで、技術科の教師が数学も教えていたりした。プレハブ校舎の音楽室にはピアノがなく、音楽教師はウクレレを使って伴奏していた。とにかく生徒がごちゃごちゃといて、今から考えるといろいろめちゃくちゃだった。改めて、今ではまったく違った世界になったのだと思った。
●子供の時、親戚の集まりがあると子供がたくさんいた。この前、弟夫婦の子供の初節句では、弟夫婦、双方の両親、奥さんの姉、弟の兄(ぼく)と姉(ぼくからみると妹)と、大人が九人もいて、子供はたった一人なのだった。