●『リライト』(法条遥)を読み返して、その勢いで(『リライト』の元ネタである)『時をかける少女』(細田守)を観直した。細田版「時かけ」は(観たのは二度目だけど)、やはり(つまり、最初に観たとの感想と同様に)ぼくにはダメだった。
●(以下、『リライト』のネタバレあり)『リライト』も読むのが二度目だったので、物語の辻褄をかなり細かく確かめながら読んだ。これも、最初に読んだときの日記にも書いたことだけど、「旧校舎の崩壊」の場面は辻褄が合っていないように思う。もし、世界が分裂することなく「一つしかない」のだとすれば、「一つしかない」はずの旧校舎の「一度しかない」はずの崩壊の場面を、四十人もいる生徒たちが一人一人別々に経験することは出来ないのではないだろうか。出会いの場面ならば、AさんはA教室で、BさんはB教室で、という具合に、四十人の保彦と、四十人の生徒のそれぞれが、空間によって仕切られることで、それぞれ(ほぼ)同時に「唯一の出会い」を経験することは可能だし、時間をずらすことも可能だけど、崩壊場面は教室一つ一つが別々に崩壊するわけではなく、時間的にも空間的にも一挙に崩壊するのだから、出来事を経験の数に分割することが出来なくなる。
とはいえ、この物語では「記憶の改変」が可能ということになっているのだから、そこらへんは「記憶の操作」でなんとでも出来るということなのだろうか。でも、それが「記憶」の問題でしかないとしたら、十年後に行って携帯電話を持ってくるという出来事も、「記憶」の問題になって、つまり実際にタイムリープしていないということになってしまうのではないだろうか。そうなったら、物語の根本が成立しなくなる。
あるいは、友恵の家の蔵の壊れた階段のように、一度倒壊した旧校舎をなんらかの形(未来技術!)で復元させて再倒壊させるという手法で、時間的なズレをもった倒壊を四十回繰り返して(!)、その度に(その時に「主人公」である生徒を除いた)関係者一同――警察や消防まで含めた――の記憶を書き換えるということを行ったということなのだろうか(一日のうちにこれをやるのは、不可能ではないとしてもかなり大変そうだ)。そうすれは物語が成立しはする。いや、相当無理があるけど。
(小説で具体的に書かれる「旧校舎崩壊」の場面はパターン鈴子の場合であり、その時、鈴子は崩壊直後に、オリジナルである美雪の姿と、裏オリジナルとも言える友恵の姿を見かけるのだけど、このことは何か関係があるのだろうか。)
●まあ、そのような細かいツッコミはともかく、『リライト』の場合、並行世界は否定され、世界は分裂(分岐)しない(世界−宇宙は常に唯一である)というのが大前提としてあるから、教室A、教室Bというような形に(世界内で)空間的な分割ができないものは時間的に反復する(保彦1、保彦2、保彦3…、のように)しかなくなって、このような無理が出てくる。
(保彦が線的−時間的に、繰り返されるループとして経験していることを、茂は同時多発的−空間的に経験している。)
この宇宙が唯一であるということは、この宇宙の外は存在しないということだ。しかしそこにタイムリープが導入されると、宇宙が唯一であることによって、この宇宙内には「原因」が存在しないような「結果」が発生してしまう(原因が存在しないからこそ、その結果は動かしようもなく問答無用に「絶対」であり、それが「運命」と呼ばれる)。そして、このような無理(パラドックスによって「運命」が生まれる)を極限まで推し進めてゆくことで、「この世界」そのものが消えてしまうというところまで行く点が面白いと思う。『リライト』で書かれた世界(この世界(前))は、世界が常に唯一のものであるとすれば「この世界(後)」からは、何の痕跡も残さずに完璧に消えてしまう世界となる。リライトされた後の世界では、リライト前の世界は(どれだけ過去にさかのぼっても、未来に行っても、決して見出すことの出来ない)完全に「なかった」ものになる。リライトがあったという事実さえ、この宇宙の内には何も残らない。