●渋谷のアップリンク・ルームで「コラボ・モンスターの魔!!」。高橋洋さん、古澤健さんとのトークに参加した。
喋るのは難しいなあと思った。「宇宙人好き系」についてはそれなりに話せたと思うのだけど、『旧支配者のキャロル』という作品について、具体的にもうちょっと突っ込んだ話が出来たのではないかという思いが残った。いろいろ考えていたはずなのに出てこなかったというか、話をそっちに振られても、上手く対応できなかった感じ。宇宙人好き系について話す方に頭がいってしまっていて、うまく切り替えられなかった。
これは人前でのトークに限らず、普通に人と話す時もきっと自分はそうなのだろうと思うのだけど、その話の流れに合わせて頭を切り替えるのが難しい。
●なので、『旧支配者のキャロル』についてもうちょっとだけ書いてみる。
この映画には、DVで撮られた映画内現実の層と、16ミリで撮られた映画内映画という二つの層があると言えるけど(このことについては1月25日の日記に書いた)、それとは別に、上半身(主に顔)と下半身(主に足、そして白い下着)という二つの層があって、二つの層が裏表のように分離して進行しているように思う。そのことを示しているのが冒頭の、入学させる学生を選考している講師たちの場面で、ここで講師たちの上半身と下半身とはテーブルによって視覚的には分断されている。この場面で唯一、上半身と下半身との連続性を示しているのがナオミ先生で、この場面ではナオミ先生のテーブルの下の足が強調される。
で、この映画でのみゆきとナオミ先生との対決は、主に上半身(顔)の層で行われている。言い換えれば、みゆきは上半身の層だけでナオミ先生に勝とうとしていて、下半身の層の存在には気づいていない。しかし、ナオミ先生の「力(磁力)」は、下半身の層から来ていて、あるいは、下半身と上半身の連続性から来ていて、そのことを明確に示すのが、最初のラッシュの時に見られたフィルムであろう。村井の持つ懐中電灯の光は、まずナオミ先生の内股から股間を照らし、そのあと、ゆっくと上半身へ、顔へと上ってゆく。白いスクリーンからイメージが浮かび上がるように、白い下着、白いブラウスを経て、顔が浮かび上がる。この、下半身の層からくる力が顔へと向かって結実するイメージが、監督(みゆき)だけでなく、スタッフのすべてに呪いをかけている。
(そして、ナオミ先生の上下逆転した顔は、その逆転によって、顔そのものが下半身化したような力をもって、みゆきにもっとフィルムをまわせと誘いかける。)
対して、みゆきはあくまで「顔」の存在で、例えば、フィルム代を得るために体を売ろうとする場面でも、みゆきの客となる男はみゆきの顔に触れ、カメラも、そこでみゆきの顔に向かって近づいてゆく。
みゆきがナオミ先生をひざまずかせ、首根っこのところを足で踏みつける場面で、みゆきの「足」がはじめて強調される(ここでもみゆきは「足」を見せてはいない)。しかしこの場面でも、みゆきが、そしてカメラマンが注目するのは、踏みつけられ屈辱を感じているナオミ先生の顔であり、ナオミ先生の力が下半身の層からくることには気付いていない。というか、ナオミ先生の下半身の力は、ナオミ先生固有のものというより、(表の法則とは別の裏の)世界の法則と繋がっている。だからここで、みゆき−ナオミ先生という関係の逆転が仮に成立したとしても、みゆきはもっと大きな流れ(下半身の層からくる力)の方に絡み取られてしまっていることにまでは気付いてない。顔は、あくまで世界の表の層であり、世界の仮の姿でしかなく、(この映画が顔の表情をとても繊細にとらえた作品であるにもかかわらず、それでもなお)いくらでも取り換えが効くものなのだ、という感触が、宇宙人好き系的な『旧支配者のキャロル』の世界ではないか。
トークの後の打ち上げで、宇宙人好き系の起源はロシアにあるのではないか、という気づきを得た。